ドマドマ、まごまご

日曜、月曜とGPシリーズアメリカ大会を見た。TVの枠も1時間。アイスダンスはやってくれないのでがっかり。ベルビンは本調子なのだろうか?
日本のメディアは女王キム・ヨナの「銀河点」を煽りまくっていたけれど、そんな盛り上がりを拒否するかのように、フリーでは転倒を含む大きなミス3つ。SPでは生き生きと滑っていたように見えたのだが、フリーでは、最初のコンボでのルッツの着地で氷を削ってしまい失速、3TLoの高さが足りず軸が乱れ、その余波が中後半にも及んだという感じか。ルッツとフリップはやはりカードの裏表なのだなと思った次第。

火曜の朝は、7時から学校で生徒指導。だいたい6時半には学校に着くように家を出るので、外はまだ相当に暗い。国体後は日の出が遅くなったので、ちょっとだけ遅く起きるようにして、5時起きにしていたから、自分が起きること自体は全く苦にならないのだが、昼の弁当を作る妻も必然的に早起きになるというのは申し訳ない気持ち。じゃあ、自分で作れってことだな。

1限2限と2コマ連続の高2は新しい課へ。
教科書の各課の英文をチャンク毎に改行・センタリングし印刷。
裏返したまま定規を準備。合図で表にして、1行ごとに定規をあてて私の範読を聞きながら読解。
最後まで終わったら、裏返して、白紙にどんな話しだったか英語で書き出す。消しゴムは使用不可。
2回目を聞いて加筆修正。
その後、昨日の「今月の歌」で扱った、手がかりの作り方・着眼点を確認。
肝心の、

  • その段落、そのパートの基本時制の確認

というところがまだまだ甘い。そこが徹底しているからこそ、動詞・助動詞の過去形や過去完了、助動詞+完了形が単なる時系列に跨ったり、遡ったりする記述・描写なのか、それとも仮定法での「現実離れ」「反実仮想」なのかが瞬時に判断できる。

  • 時間の流れ・経過・推移は何を見ればわかるか?

は直ぐ出てきたので、着実に浸透はしているようだ。onceやstill といった副詞、anotherといった限定詞類、the firstといった順序を表す表現を当然視せず、蔑ろにせず、着実で骨太な読みを身に着けるための踏ん張りどころである。

  • 登場人物の関係は何を見れば分かるか?

というのは、物語を読んだ経験知、もっといえば人生経験の少なさを補う想像力のようなものも必要なので、「今月の歌」で扱われている、良質のフィクションや短編小説に匹敵する歌詞を熟読玩味して下さい。
で、3回目は、裏面を使い、今確認したばかりの着眼点を踏まえ、教科書の脚注部分にある、内容理解確認の英問を投げかけ、その答えに当たる情報が自分の書き出した英語にあるかを検討。加筆修正。
最後は自分の書き出した英語を見ながらペンを置いて英文を聞き、加筆修正。
ここまでやると、大まかな内容理解は済んでいるのだが、ここで初めて英文をじっくりと読む。ここができれば、授業で先を急ぐ必要はない。音源は一人一人皆持っているので、同じ活動を、CDのトラックリピートでいくらでもできるから。それよりも、言葉のひとつひとつを身に着けるために読みを深める方向で動いている。今日扱ったポイントは、

  • A but B, because C. という文で、Cのbecause節はbutを越えられるか?
  • whisper の語義は、「ささやく」か?英英辞典の定義を見てみよう。
  • 否定疑問の答え方は、「はい・いいえ」を使わず、助動詞基準で考える。
  • “Turning my head, I saw lions ….” まででは分からなかった、”turn” の回転方向や角度が、 “… I saw lions sleeping around us, nine in all.” まで読んだところで分かる。
  • “We were in bed with a group of wild lions!” の読み方。私も初読では間違えて、2回目から修正しましたね。

というようなことがら。教科書の文法項目は「動名詞」だが、ただ動名詞を扱いたいなら、それこそ文法問題集をゴリゴリ何周もすればいいことなので、英文を読みながら、語彙・構文・音声などなどそのつどそのつど、重要度を考えて取捨選択して取り扱っている次第。
今月の歌は12月の分も先取りして、3曲追加の予定。
書き取りは、Richard X. Heymanの1997年の曲、”If we should ever meet again”。それと対比させるべく、The Smithereensの “Strangers when we meet” は歌詞を最初から提示して扱う。来週は、Todd Rundgrenの ”Lucky Guy” を検討中。

高1は、「今月の歌」の歌詞音読。今回は、Bobby McFerrinの大ヒット曲。出席番号順でちゃんと出来たら次の人という流れ。明暗くっきり。

  • 個々の音はもっともらしいけど口先・舌先だけで声になっていない人、調音が見違えるほど英語らしくなってきた人
  • 「さ・す・せ・そ /s/音ドリル」を活用していない人、活用できてようやく自然な文脈で singが言えた人

暗をどうしたものか、案じる夜うむうむ…、などと軽口を叩く余裕無し。そうはいっても、明に救われることも多々あるわけです。
特に、入学時には、音読といっても、もごもごと何を言っているか全く分からなかった生徒が、

  • In every life we have some trouble. When you worry, you make it double.

を明瞭に読み上げたときと、
/s/ 音がダメで、個人攻撃とも言えるくらい厳しく指導してきたある生徒が、

  • Here is a little song I wrote. You might want to sing it note for note.

での “sing” を一連の流れの中でしっかりと読み上げたときは、ちょっと感動しました。
それぞれの努力を正当に評価し、コメント。

高3は問題演習。
代名詞の語法と数量表現。Upgradeだけでは英語の大事なところが抜けてしまうので、金子先生の『48』で英作文の補充。

帰宅後はまず、高1、高2のノートチェックから。
高1は予習の仕方を理解しているか、私の要求している目の付け所が浸透しているかの確認なので、今後も継続的に行う予定。
高2は、「のりピー」課題のチェックです。
ここで授業で扱った課題・活動とパラレルなものをいかに設定して評価するかが大切なので、期末試験では「押尾」課題を出そうかと案を練っています。

林竹二・竹内敏晴『からだ = 魂のドラマ 生きる力がめざめるために』 (藤原書店、2003年) を遅ればせながら読了。いくつかは既に読んでいた内容だが、「今日の君は昨日の君とは違う」ので、身も心も揺すぶられた。とりわけ「つぶす」という概念に得心。こういうつぶし方ならつぶす価値があるでしょう。
その他、かなりの分量になるが、林のことばから拾っていく。

  • いま立っているところよりはるかに高いところまで子どもは自分の手や足をつかってよじ登っていかなければならない。よじ登っていく意欲と努力があったときにこちらのちょっとしたヒントが子どもの力になるわけです。だけど、よじ登る意欲を持った子どもがそこにいなきゃだめだと私は考えないんです。私はみんな持ってるというふうに感ずるのです。だから、よじ登らないではいられないような、場面をつくることに教師は責任があるのです。 (p. 47)
  • 授業において重要なのは、子どもの出す答えが「当たって」いるかどうかではなくて、その授業の中で、学習が---すこし大げさなことばを使えば、自分を賭けた学習がおこなわれているかどうかなのです。ことばをかえていえば、答えそのものではなく、答えの「根」にあるものが問われているのです。教師にことばの背後にあるものにたいする感覚というようなものがないとほんとうはきびしい吟味はできない。(p. 71)
  • ですから、つまり休んでなければ集中できないんですよ、非常に簡単に言うと。年がら年じゅうこれもやらなきゃいけない、あれもやらなきゃいけないというふうに思ってたら絶対に人間は深い集中はできないわけですね。筋肉を考えればわかるわけで、だらっとしているからパッと力が入るわけで、初めっから力が入っていたら、これに力をまた入れるということはできない。ですから教師はもうちょっと休まないと、ほんとうに一年に一ぺんだか、一月に一ぺんだか集中してほんとうにいい授業をするということはできないのじゃないかという気がするわけです。(p. 77)
  • (二人の生徒の感想を受けて) まあ非常に傲慢なわけですね。このY君は授業の中で普段のように幅をきかすことはできなかったので不満ですが、そういう授業の中で、前の感想を書いたような子はまったくよみがえったように喜々として学習する。(中略) 「こんなに先生と授業をしたのは初めてです」というのはほんとに切実な声ですね。だからこういう子は普通の授業の中から締め出されているわけです。発言の得意な「ぼくたち」を授業の花形として、たくさんの子を授業からしめだしていることに、先生は気がつかないで、Y君が喜ぶような、満足するような授業をするわけです。 (pp. 82-83)
  • 私はいわゆる落ちこぼれをつくっているのは、授業の貧しさ、質の低さだと思うのです。もっと本質的なものをぶつけると、もっともまともな取り組みをするのはかれらです。それをどこかで仕入れた知識が物を言うような授業しかしていないものだから、ほんとうに深いところで問題を受け止めようとしたり、要領よくまとめる能力がなかったりする子どもがいわゆる「落ちこぼれ」になる場合が決して少なくないように思います。しかしそういう子のほうがまともに考えたり、たしかに見たり、取り組んだりする力を持っている場合が少なくないのです。 (p. 92)

竹内とのやりとりで浮かび上がった印象的なことば、

  • 竹内: ありあわせのことばを持っていない子どもこそ、自分のことばをつくり出さなきゃならないわけですね。ありあわせのことばを持ってるとそれでパッと代用してしまう。
  • 林: だから、子どものことばの中から、子どもがようやくさぐりあてたことばと、容易な借り物とを教師が鋭く見分けることができなければ、やっぱりほんとうの教育はできないわけですね。 (p. 93)

少し前に戻って、林の至言を引く。

  • 教師が、やっぱり教師になる前に大学の教育なり、その後の教育なりで自分で一つのものを追求した経験というものを持っていないといけないのでしょうね。一つのものをほんとうに自分が納得いくところまで追求した経験、そこで苦しんで、これでいいと思ったのが全部だめになっちゃうというような、そういう経験を経て苦しみながら何か道をつけてきたという、そういう経験がないとほんとうはいけないのでしょうね。(p. 37)

天気は優れず。流星群は見えるのか。いったい、私に見ている余裕があるのか。

本日のBGM: ぼくは君を探しに来たんだ (友部正人)