「教えて!絶版先生」第6回『子どもが英語につまずくとき』

tmrowing2015-02-15

「教えて!絶版先生」もようやく第6回です。
センター試験や自校入試があったので、ちょっと間が空きました。最初から「不定期連載」と言っていましたから、このくらいが健全なペースでしょう。

  • 天満美智子『子どもが英語につまずくとき』(研究社、1982年)

今回は、「英語教育関係者に向けての概説書」といえるでしょうか。所謂選書版の書籍で、初版が1982年。英語関係、英語教育関係の老舗である、研究社出版から出ています。

私が、書名を見て感じたのは、大学入試の読解問題でも見かけた、John Holtの

  • How Children Fail

という本のタイトルと内容でした。
このホルトの初版が1964年。増補版が1982年に出ています。
1964年は私が生まれた年であり、1982年は私が大学に入学した年でもあります。
このホルトの「はしがき」にはこんなショッキングな言葉が書かれています。

We like to say that we send children to school to teach them to think. What we do, all too often, is to teach them to think badly, to give up a natural and powerful way of thinking in favor of a method that does not work well for them and that we rarely use ourselves.
Worse than that, we convince most of them that, at least in a school setting, or any situation where words or symbols or abstract thought are concerned, they can’t think at all. They think of themselves as “stupid” and incapable of learning or understanding anything that is complicated, or hard, or simply new.

このホルトの書が、どの程度、『子どもが英語につまずくとき』に影響を与えているのかは、本書を読んでいただくとして、早速、第6回の中身に入っていこうと思います。


私が「天満美智子」という固有名詞に触れたのは、学生時代のことです。
私が学んだのは世に言う「G大」でしたから、学生時代に直接お世話になる機会はありませんでした。

今、こうして「ライティング」が専門などと言っていますが、名著の誉れ高い、

『英語表現の演習』(研究社、1965年)

に取り組んだのも、山口に来てからという為体です。
(過去ログ参照 http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20111205)

私にとっての「天満美智子」という人物は自分の「英語の師」というよりも、「優れた英語教師を育てた教師」、という印象なのです。私が教員になってから知り合った英語教師の中で、津田塾出身の方たちに備わっている英語力や教師としての魅力に感銘を受けることが多かったということが要因としてあげられると思います。
津田塾出身の方が、こんなエピソードを寄せてくれています。

私たちは「津田塾大学」と聞くと、まず凛とした先生のお姿がいつも浮かびます。私たちが天満先生のことを話すとき、必ずと言っていいほど「凛とした」という形容詞がつきます。先生ほど「凛とした」がふさわしい方はいない、というのが私たちの一致した意見です。天満先生は本当に素敵で、私たちみんなの憧れでした。

授業の内容ではありませんが、よく覚えているのは、大教室での授業でありながら、一人一人の学生とのつながりをとても大切にしていらしたということです。途中退室するのはかまわないが、必ず一言断っていけ、と常におっしゃっていました。無断で席を立つ学生を叱る先生のマイク越しの声が今でも聞こえてきます。

津田塾の英語教育(そして日本の英語教育)を支えてきた一人として、「天満美智子」、という人物に興味を持ったというのが正直なところです。

今回取り上げるこの書を初めて読んだ時の印象は、意外にも「達人」とか「カリスマ」とかいうものではなく、人間味あふれる人物像で、

こういう先生が中高の現場にいたら、きっと「英語教育界の大村はま」みたいになっていたのかな?

というものでした。

出版社、編集部が付けていると思しき、「裏表紙」のことばを引きます。

新しい英語教育の時代が始まった。
教育者と学習者の間に横たわる根本的な問題、教科書や時間数に関する問題、授業の進め方や評価にまつわる問題、等々。
本書は、これらの山積する諸問題を、教育の原点にたちかえって、あり得べき英語教育の姿を示唆した中学・高校の英語教育者必読の書。

「はしがき」に一部示されているように、本書の論考の一部は、1980年、1981年に英語教育関連の雑誌で発表されたものに加筆修正されたものです。紋切り型の形容は好きではありませんが、「時代的」には、1982年以前の「英語教育の現実」と「著者の視座」を反映したものとなっていると言えます。

私の恩師、若林俊輔氏の『これからの英語教師』(大修館書店)が、1983年に刊行されていますから、ほぼ同時代の考察と捉えていいのではないかと思っています。

「はしがき」には著者の正直な声が聞かれます。少し長いですが、大事なところですので引いておきます。

子どもの目から見た英語、子どもの耳から聞いた英語、それはどんな形、どんなひびきをしているのだろうか。英語の授業のさなかに、子どもは一人ひとり、どんな心の動きをしているのだろうか。何十年も英語の教師をしていながら、これらの問いかけへの答えの貧しさに愕然としたのは、実はつい最近のことであった。「子ども不在の授業」をしてきたことへの自責の思いは、やがてわたしに再起の手がかりを提示してくれた。それは「虚心に子どもの声を聞くことから始めよ」ということであった。わたしは、子どもたちのありのままの声を聞かせてほしいとの依頼の手紙を、全国に散らばっている多くの親しい教師の方がたへ書き送った。やがて半年もたたぬうちに、2,000にもあまる子どもたちの声が、中学校、高等学校、そして定時制高校の先生方を通して届けられた。わたしはこれと平行して、都内の子どもたちと直接に話しあって、なまの声を聞くことにも努めた。書かれたものも、語られたものも、ともに子どもの真意はすなおに私の心にしみ通っていった。そして、驚いたことに、全国的なひろがりの中の子どもたちでありながら、その声の内実はまことに均一なものであった。つまり、どの子どもの声も、その中核は、英語の授業における「つまずき」にかかわるものであった。
わたしは、子どもの声の導くままに、この問題に没頭せざるをえなくなっていた。

優秀な教師が、優秀な教え子に恵まれ、成功をおさめるという「物語」に安住するのではなく、自分の歩み、足跡を振り返り、見落としてきたもの、見落としてきた人にはじめて出会った驚きを正直に表しているように思います。言うほど容易なことではないとわかる人がどのくらいいるでしょう。

例えば、「人事異動」のある公立校で、中学校ではなく、高等学校に勤務していれば、受験者層が「学校のランク」で輪切りになった結果、上位校から「困難校」「までの学力格差は極めて大きいことが実感できるでしょう。その場合でも、比較的年齢が若い時に「困難校」に勤務するものの、年齢が上がり、経験を積むに従って「中〜上位校」への異動となり、晩年は「進学校」同士でのほぼ水平異動に近いケースがまだまだ多いのではないでしょうか。年齢が上がり、経験を積むにつれて、より困難な学校、俗に言う「底辺校」へと異動を希望する教師は稀でしょうし、そうし続ける教師は「絶滅危惧種」的存在だと思います。

そんな状況下では、本来、経験知が高まり、学習者のトラブルスポットなどに対する「気づき」のアンテナの感度が高いはずのベテラン教員は、そのようなトラブルを余り感じない学習者の比率が高い、上位校・進学校に異動していき、本来、経験豊富な教員による理解と支援や介入が不可欠な「学習に困難を抱える者」には、比較的若く、経験知の少ない教員が指導に当たっているのが現状ではないでしょうか。

教員には「キャリアアップ」が必要と考える人たちには無理からぬことなのでしょうが、同じ「学習者」でも、「学習」に困難を抱える「者」の現実を考えたときに、「適材適所」とは成りえていないように思います。

そんな動向を踏まえて、大学人としての天満の行動を見ると、これはなかなか「有難い」ことなのだろうな、と感じずにはいられません。

今でなら、全国規模の「学力試験」による「通過率」などを用いて、「つまずき」を可視化しようとするのでしょうが、そのような「画一的な調査」ではなく、「個々の生徒の語り=ナラティブ」に基づいた「自由で多様な反応」を用いて、「一人ひとりの声」を聞くことで、より深い気付きが得られたことは想像に難くありません。

本書の「タイトル」にも深く関わる、ある「ことば」について、天満は、はしがきの終盤でこう述べています。

いまひとつ断っておきたいことは、「子ども」という用語についてである。本書では「子ども」という語を中学生から高校生(定時制を含む)までの広い範囲の学校生徒を対象にして用いた。「生徒」という語のもつ体制的な冷たいひびきを好まなかったからであり、また、母親のわが子にそそぐ慈愛の情を教師に託したいと思ったからでもある。学校の子どもたちがもっとも必要としているのは、彼らが心から敬愛し信頼できる教師である。彼らが両親や教師に対していだく愛情と尊敬こそが、その後につづく人生を豊かなものにする原動力だと私は信じているからである。

装丁も目次も次のように極めてシンプルなものです。全編でも162ページの「選書」版となっています。

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天満1982目次.jpg 直

ただ、前篇の「なぜ子どもは英語につまずくのか」に対して、後篇の「よろこびをもたらす英語の授業とは」は倍近い分量を割いていることに気がつきます。
1章「子どもの声」には、
1. 子どもの感想文から
として、

<英語が嫌い (1-17)>
<ここがわからない (18-31)>
<教科書がつまらない (32-38)>
<こんな授業をしてほしい (39-56)>
<なぜ英語をやるのか (57-60)>

の60人の声が収められています。60/2000強、での代表例、典型例ということになるでしょうか。
中でも目を引くのが、<英語が嫌い>が17人、<こんな授業をしてほしい>が18人と際立っていることです。

<英語が嫌い>から、いくつか抜粋します。

(1) 最初のころはよく分かったけれど、だんだん新しい単語がつぎつぎに出てくるし、文章もまったく変わってしまうし、英語なんか好きじゃない。(中1)

(4) ずっと前は英語をもっともっと勉強して外国へ行きたいと思っていたが、今はあほらしくなった。なぜならぜんぜんわからなくなったから。(高1)

(8) 英語は中学の時からずっとにが手だった。中1の終わりあたりから、どんどんわからなくなっていったような気がする。そのわからない部分がどんどんたまっていって今のようになったのだろう。もう一度、前に使っていた教科書を見なおしてみようかと思っている。 (高2)

(15) 英語をはじめて学んだのは中学に入ってからでした。中1の時は、とてもやさしかったので、よくわかったのだけれど、中2になったらだんだんむずかしくなってきたから、すぐいやになった。高校に入る時は、英語の成績はそんなに悪くなかったような気がする。そして、高校に入ると、もうまったく授業にはついていけなかった。いねむりをするのは、ほとんど英語の時間だった。授業を聞いていても何が何だかさっぱりちんぷんかんぷんで、おもしろくなかった。だからねむくなってしまったのだろう。
今年で英語を学んでから7年目に入るというのに、あまりよくわかりません。もっとしんけんに英語に取り組んでいれば、今ごろはもう片ことの英語はしゃべれるようになっていただろうと思う。ほんとうにそんをしたと思っています。(定時制高 2)

(17)「英語」という言葉を聞くと、苦手なもので、耳で聞いていても反対側から抜けていって頭の中で受け付けない。勉強しようと思っても基礎ができていないため、手のつけようがなく何から勉強したらよいのかわからない。授業での勉強もおいつけなくて、「いいや、わからないから、あきらめよう」って気になってしまう。そこが私の欠点であろうと思う。英語が好きとか、好きでないけどできるって人がうらやましい。覚えるコツでも持っているのだろうか。人には得手不得手があるだろうけど、私みたいに拒否反応を持つ人もいないだろうと思う。どうしたら私みたいな人は英語を受けつけられるようになるだろうか。 (定時制高 2)

<こんな授業をしてほしい>で印象に残った声がこちら。

(47) 私は英語が好きで生の新鮮なさかなやさんに売っているような英語を勉強したいと思います。○○先生のように、これが主語で、これが動詞、これが目的語で…なんてことは私はいやで、それよりも外人さんとてきとうに話ができて相手が何を言いたいかがわかるようになれるほうが語学をならううえで大切だと思います。 (高2)

(52) ぼくの思うに、英語をむずかしく考えずにもっと気楽なものにできたらいいと思う。たとえば、ただ教室の机の上の勉強ではなく、みんなでまるくなって、カタコトの英語でもいいから、すきなことを話しあえるようになったらどんなに英語は楽しいものになるか。きっと英語の嫌いな人でも、そのような授業だったら嫌いにならずにすんだかもしれない。 (高2)

これら60篇の代表的な「声」を聞いて、天満はこう述べています。(pp.19-20)

以上60篇は、わたしの集めた子どもたちの感想文のサンプルにすぎない。しかし、それらは、その何十倍もの感想文や、わたしが直接、中学生や高校生の口から聞いたなまのことばを、ほぼ集約するものと考えてよい。雄弁な子どもと、そうでない子どもの表現に差があっても、その言わんとすることは、いずれも的確である。教師は子どもの身になって、そこに存在する問題をていねいに解きほぐし、解決への糸ぐちを見つけ出し、子どもひとりひとりに安らぎを与えねばならない。

天満のまとめた問題点は以下の8つ。

(1) 好きから嫌いへの移行
(2) 「わからない」英語の授業
(3) 応用力の不備
(4) 文法と丸暗記のつらさ
(5) 誤りへの恐怖
(6) ただ一つの正答への執着
(7) 教科書への不満
(8) 学習目的の不明確さ

印象的な言葉を引きます。
(2) から、

「わからなくなった」のではなく、「わかりにくくさせられた」のであり、「勉強不足」ではなく、「勉強の意欲を喪失させられた」のである。子どもはむしろ被害者でありながら、どうして自分をかくも責めるのだろうか。わたしは、それがあわれでならないし、また教師の罪の深さを感じないではいられない。「わからなくなったのは先生のせいです」とどうしてはっきり言ってくれないのだろうか。 (p.22)

ここでの天満の言葉は、最近で言えば、

  • 益田ミリ『みちこさん英語をやりなおす』(ミシマ社、2014年)

で見られる、次のようなフレーズと通じているように思います。

  • 新学期になると、いつも今度こそは授業についていくぞって思ったのだけれど、ひとつわからないところが出てくると、もう、先に進めなくなった。(p.21)
  • 先生、簡単かどうかは先生じゃなくて私が決めることだと思います。だから勉強中に「簡単でしょう?」って言うのナシにしてください。(p.27)
  • 人に何かを教えるって教える側の何かを試されてるってことなのかもしれない。(p.33)
  • もしかしたら、英語の勉強につまずいてきた人たちって、わかり足りてないまま授業が進んで、つまらなくなったのかも?
  • 先生、「わかる」ってなんかうれしいです。小さなことでも。 (p.43)

天満から益田まで30年以上の隔たりがあるにも関わらず、そこでの「学習者のつまづき」の根源に同じものがあるということに、英語教師の一人として、忸怩たる思いがします。

この『みちこさん…』は、静岡大の亘理陽一先生のブログで知ったのですが、そこで添えられていたこの言葉には久々にドキッとしました。

学校教育の一環として、外国語としての英語を教えていて、この本を読んで何も感じないのだとしたら、余程おめでたい人か相当罪深い人なんだろう。(http://www.watariyoichi.net/2015/02/08/books005/)

教師として、自分の罪の重さを感じるとしたなら、どうするか?

天満が (3) で示した次の指摘にもあるように、一人ひとりの教師が、ただ「子ども」の「わからなさ」に寄り添うだけではなく、ひとりひとりの「子ども」に学びを芽吹かせ、根付かせること、しかないように思います。

基本となる文の仕組みがしっかりと徹底的に教えられており、その後に出会うであろう類似した文、やや複雑にみえる文は、その基本の文構造の単なる変形としてみる考え方が養われていなければならない。(中略) つまずいたときにはいつも、もとの基本文に戻りうるからである。よりどころをもつということは、自信を深める学習につながるのである。(p. 23)

(7) の教科書に関しては、このブログの過去ログで私が何度も指摘している「読むこと」とその「学習材」に関する指摘に通ずるものがあります。

子どもたちが統御しうる英語だけを使って、内容のある読みものを編むということは本当に不可能なことであろうか。特に初期の段階の教科書において、パーマー (H. E. Palmer) によって提唱された書きかえもの (retold story) や、850語から成るBasic English を用いた直接教授法 (Graded Direct Method) の試みから学ぶ面があるようにも思われる。子どもが素材を楽に扱うことができれば、彼らに関心のある内容を盛り込んだ教科書を楽しく読むことができるはずである。 (p. 28)


(8) の「学習目的」に関しては、異論もたくさんあることでしょう。寺沢拓敬『「なんで英語やるの」の戦後史』(研究社、2013年) で時代背景の理解を深めるのがよいだろうと思います。

私はG大の出身で英語教師となったわけですが、私自身が自分の欠点として長らく感じているのが、「教育学」的な資質・素養が足りない、ということです。そんな私の目には、第2章「教師としてのあなたへの問いかけ」で引用されている「人」は、時に眩しく映り、後ろめたさを感じることさえあります。

  • 林竹二、ブルーナー、ベルン

21世紀の「英語科教育法」でも取りあげられることがあるのでしょうか?そもそも、そんな余裕があるのでしょうか?

冒頭が「林 竹二」のことば。写真をご覧下さい。

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教師として、教育学者として、林竹二を知らない世代が増えた今、私のこの指摘も遠く、深く響くことがないのかもしれません。しかし、だからこそ、この1982年の時点で、天満が林から多くを引いているという事実は記しておくべきだろうと思っています。


推薦図書には上がっていませんが、第3章「英語がわかるということ」では、数学者の岡潔が引かれています。
ワラスの「創造の四段階説」(準備、あたため、ひらめき、検証)からの流れで、

夏休みに九州島原の知人の家で二週間ほど滞在し、碁を打ちながら考え込んでいたあとのことで、帰る直前に雲仙岳へ自動車で案内してもらったが、途中トンネルを抜けてそれまで見えなかった海がパッと真下に見えたとたん、ぶつかっていた難問が解けた。自然の美と発見とはよく結びつくものらしい。(p. 51、岡潔 『春宵十話』角川文庫、1969年より)

『春宵十話』の「宗教と数学」にある一節です。英語教育の分野で、岡潔の名を目にしたのは、これが二度目でした。私が初めて目にしたのは、

  • 戸川晴之『英文表現法』(研究社、1972年)

の前書きで、

だいたい、ことばを聞いてわかるというが、それで内容までちゃんとわかるということはない。たとえば秋の日射しと言っても、秋の日の射し方ということではないが、それは自分が本当に秋の日射しの深さがわかるようにならなければ、ことばでいってもわかりはしない。してみると本当にわかるのは簡単なことではない。(岡潔『春宵十話』、「奈良の良さ」の一節)

というもの。
英語らしい英語表現を求め続けた戸川と、英語につまずく子どもをなんとかしようとする天満とが、同じものを求めていたとは考えにくいのですが、それでも、この「時代」を生きた「教養ある英語人」二人がともに岡潔の同じ本を読んでいたという事実が、私にはとても大きな意味を持って迫ってくるのです。

今、2015年、英語教育改革を熱く語る人は私の上の世代にも数多いますが、その中で、林竹二や岡潔のことばを今も心に宿している人はどれだけいることでしょう。
ここで見られる天満の言葉の端々には、岡潔の影が見て取れます。

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天満の本からは少し離れますが、林竹二は、竹内敏晴との対談でこんなことを言っています。(『からだ=魂のドラマ 「生きる力」がめざめるために』藤原書店、2003年より)

斎藤喜博さんなんかは、よく国語をやるものですから、誰に読ませるかということが非常に重要なんで、何回も何回も声を出して読ませて、あの子ならいい読み方をするというように見当をつけて読ませる。その朗読で基調ができるわけです。だけど私の場合はそう言う必要はないわけです。なるべくまごまごしてもらったほうがいいのです(笑)。私も一緒にまごまごすればなおよいのです。そうするとみんながそこへ入ってくるわけです。明晰にぱあっとやられるとみんなついてこられない。まごまごしているとみんな入ってくるわけです。エッサエッサとみんな集まってくるわけです。そういう状態が私には一番好ましいわけですね。

この対談の初出は、1976年。『林竹二・授業の中の子どもたち』(日本放送協会)。
今の教育現場にこんな発言を飲み込む余裕、懐の広さはあるでしょうか?
「わかりやすさ」を過剰にアピールするかのような巷の「英語本」とは正に対極にある姿勢でしょう。
「わかること」を見つめるまなざしの違いがここには読み取れます。
「わかる」ということに対する「畏れ」を感じるからこそ、天満が林を引用しているということ、林を読みinspireされているということの意味を、再度噛みしめたいと思うのです。

  • 「4. あなたは、教科固有の美しさを感じているか」(pp. 38-40)

でのブルーナーの引用と、それに続く天満のことばは、私に「初心」を思い起こさせてくれます。スキルの向上が至上命令であるかのような現在の英語教育現場で、もっと響いて欲しいと正直に思います。

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第4章の「母国語習得の過程」は、2015年現在の、SLAの知見からすれば、誤っているもの、問い直されるべきものもあるでしょうし、それも科学の宿命です。
ただ、次の引用は、今日でも、立ち止まって反芻する価値があると思っています。

J. リチャーズの分類による「外国語学習者の誤りの原因」(pp. 66-67)
1) 過度の一般化 (over-generalization)
2) 規則の制限に対する無知 (ignorance of rule restrictions)
3) 規則の不完全適用 (incomplete application of rules)
4) 誤った仮説からの概念づくり (false concepts hypothesized)

ここで引かれている J. Richards は、1971年の論文ですから、もう40年以上前の「知見」です。しかしながら、現在、巷で出版され、学習者の目に、手元に届く「英語本」の中には、ここで指摘されている「原因」が見事に当てはまっていると感じずにいられないものもあるのです。「専門家」「有識者」の責任は重いのです。

もう一点、「3. 母国語習得過程の研究からの示唆 (pp. 70-73)」がこの第4章の最後に設けられていることの意味を受け止めたいと思います。
その観点で、第3章の次の記述を読み直せば、その言葉の重みも違ってくることでしょう。

私たち教師は、子どもの中に自分を投げ入れて、子どもがどのようにして物ごとをおぼえていくのか、どのようにして英語を学んでいくのかを知ろうとしなければならない。学習者中心の英語教育などという表現がさかんに使われるが、はたして子どもの立場に自分をおいて眺めるという客体化のできる教師、想像力のゆたかな教師がどれくらいいるのだろうか。(p.44)

後篇では、技能ごとに、天満が望ましいと思っている授業の指導手順、学習方略の指導例が示されています。
当然の如く「聴くこと」から始まっています。
第5章「英語をきくよろこび」で印象的なのは、初期・入門期での「リズム」と「チャンク」の重要性を指摘していることです。日英での「詩」の効用が説かれています。
「(2) ディクテーション (Dictation)」の項 (p.87) で示されている、

初期の段階では、そのチャンクを一度自分で反復してから書き取らせることがのぞましい。

は、私が今現在、高校生の授業で頻繁に用いている指導手順でもあります。

「(3) 情報探索ディクテーション (Information Search)」のバリエーションとして追加されている次の手順 (pp. 86-87) を見て、若い世代の英語教師は何に気づくでしょうか?

なお、この練習はチャンクを識別し、それを書くという作業であるが、これをさらに発展させて、中級の段階の学習者には、各チャンクを連続させて、もとの文章に近い話にまとめて口頭で発表させたり、全体を書いてまとめさせる作業を課すことも可能である。

この最後の記述だけを取り上げれば、今風の英語教育が「ディクトグロス」と呼んでいる活動に似ていますが、その前の一連の手順を踏まえれば、むしろ、私の実践で「ディクトグロスもどき」と呼んでいる活動とほぼ同じものと言えるでしょう。

第6章「英語を話すよろこび」、第7章「英語を読むよろこび」は省略します。

ただ、第7章の冒頭で、「発音と綴字の関係」について紙幅が割かれていることに注目したいと思います。この部分で「子どもたちには、何が難しいのか?」を英語の発音と綴り字の体系を身につけてしまった英語教師が、追体験すること自体が極めて難しいだろうと思います。
少々遠回りのようですが、

  • 大名力 『英語の文字・綴り・発音のしくみ』(研究社、2014年)

を読むきっかけとして欲しいと切に願います。

第8章は「英語を書くよろこび」。
私の専門分野ですが、私も含め多くの人が冒頭で立ち止まり、そのことばの反芻を余儀なくされることでしょう。

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写真で示した部分から一節を引いておきます。

「書くこと」には勇み足は考えものである。先を急がずに、一歩また一歩のあゆみを大切にして、そこでの楽しみよろこびを少しずつ重ねていくようにしたいものである。(p. 127)

この少し後に、もう少し具体的な指針が示されています。

さて、「書くこと」に含まれる作業は大きく2つに分けることができる。つまり、英語の文字で書き写すことと、自分の表現したいことを書き記すことの2つである。(中略)
中学校の段階では、前者のいわゆる書き写す操作が正確に出来ることをもって一般の達成目標とすべきであり、あまり早い時期から自己表現を強いることは避けなければならない。自分の思いを書き表す作業は、母国語においても容易なものではないことは周知の事実である。まして英語に馴じみの薄い学習者にそれを課すことは、無用の負担を与えるだけでなく、母国語に依存した不自然な英語の習慣を作る温床ともなる。いわゆる創造的な文を書く段階は、上級のごく限られた学習者のみを対象とすべきであろう。自由英作文に至るまでにはしっかりとした土台作りのための準備段階がいくつか必要である。これらについては順を追って説明することにしたい。(pp. 128-129)

この続きは、是非、実物を手に取ってお読みいただきたいと思います。

この直後では、入門期での、「書き方の導入時期」、「具体的、段階的指導手順」が説かれています。

(1)文字の書き方およびそのつなぎ方
(2)書き写し(Copying)
(3)制限作文(Controlled composition)
(4)自由作文(Free composition)

ここで説かれている、(1)と(2)の重要性をいくら強調してもし足りないと思います。

「4. 英文を書くための工夫」(pp. 136-140) は、「ライティング」指導を熱心に行っている先生方には、些か物足りない、食い足りないものに映ることでしょう。

(1)中・高校の教科書の利用
(2)よい英語表現の蒐集
(3)Thesaurusや英英辞典の利用
(4)ポーズなしのDictation練習
(5)よい英文を繰返し読むこと
(6)ゲームのあれこれ

私もそう思います。他の三技能の発達を待つのではなく、逆の発想、視野で、「書くこと」を足掛かりとして、他技能を巻き込み、学びを進める、という迫り方も考えられるのではないでしょうか?

天満は後に、『新しい英文作成法』(岩波ジュニア新書、1998年) を著しますが、そこで説かれている「ライティング」の手法は、やはり習熟度の高い、高校上級生を読者として想定したものであり、「つまづく子どもたち」の手には取られることが少なかったのではないかという気がしています。

これだけSLAの知見が広まる一方で、メディアに乗って広まる「効果的な」英語学習法が、「音読」と「多読」しかないと、学習者が勘違いしてしまわないように、教室で、英語教師がしっかりと個々の技能においても、学習の指針を示すことが、今後より一層重要になってくると思われます。


第9章「選別にならない評価」
というタイトルの意味を適切に理解しなければなりません。「シュタイナー学校」の例が引かれていますが、「シュタイナー学校」での英語授業そのものがそれほど知られていないと思われますので、この記述だけでは分かりにくいでしょう。この項目を足掛かりに、

ロイ・ウィルキンソン(飯野一彦訳)『シュタイナー学校の英語の時間』(水声社、2013年)

などを読んでみると、CEFRに席巻され、Can do statements の作成に追われがちな近年の高校教師も、その視座が揺すぶられるのではないかと思います。英国のシュタイナー学校の実践は、日本で言えば「国語教育」にあたるものだ、という認識は必要ですけれど。
ちなみに、この本の原著(私も未読です)は、1976年刊行とのことです。

最終章は、「第10章 あすへの展望」です。
この章は、
「1. 学校英語の目的」
「2. 今後の研究課題」
の2つに分かれています。

「1.学校英語の目的」から一部を引きます。

さて、現実の英語授業はどうであろうか。子どもたちの心に一大変革をもたらすような「vividなイメージ」を教師は与えているだろうか。子どもたちの頭の中に、いや体の中に、具体的なイメージを作り上げているだろうか。1章に引用した子どもたちの感想文がその答えである。もう一度読み返してもらいたい。ほとんどの子どもの答えは「ノー」である。この衝撃的な事実を英語教師はどう受け止めているのだろうか。(p.155)

教育は行政の立案者がするのでもなく、精緻をきわめた教授技術によるのでもなく、子どもの最も身近にいる教師自身による子どもとの真の交流から生まれるのである。(p.157)

本書の締めくくりの終章で、教師に向けられて放たれた、感動的な映画のエンドマークのような言葉です。ただし、そのことばを受け止める一人ひとりの教師にとっては、自分自身の物語がここから始まるとも言えます。自らの立つ、厳しい「教室の真実」と向き合う覚悟があるか、自問自答を余儀なくされるので、感動に浸ってばかりもいられません。

「2. 今後の研究課題」で示された課題が、その後どうなったか?30年後の我々には、様々な「歴史的事実」がもう見えているわけです。

ここでの天満の言葉は、あとに続くものへの「提言」というよりは「指摘」にとどまり、前篇での勢いは余り感じられないように思います。

ここで今一度、「裏表紙」のことばを反芻して見たいと思います。

新しい英語教育の時代が始まった。
教育者と学習者の間に横たわる根本的な問題、教科書や時間数に関する問題、授業の進め方や評価にまつわる問題、等々。
本書は、これらの山積する諸問題を、教育の原点にたちかえって、あり得べき英語教育の姿を示唆した中学・高校の英語教育者必読の書。

これだけ、問題意識が高く、教師の在り方に鋭く迫る、示唆に富む本書ですが、この本以降、日本の英語教育界に山積していた課題の「嵩」は少しは低くなったのでしょうか?
その後の世代への反響、影響、波紋はしっかりと連なっているでしょうか?

私には、天満氏のエピソードの文面から、その方が天満氏について語る時の表情までがリアルに浮かんでくるくらいですから、津田塾の教え子たちには連綿と受け継がれているのでしょう。では、その連なりの外には?その次の世代には?

本書は、今現実に「英語につまずいているこども」に直接手を差し伸べる参考書や学習材ではありません。その意味では、上述の『みちこさん…』にも及ばないかもしれませんし、巷の「ドヤ顔」で「英語の本質」とやらを明快明晰に説き伏せるかの如き『英語本』にも劣るのかもしれません。

それでもなお、英語教師が「高みに上る」こと「前へ前へと進む」ことだけに囚われていては、見えない「子ども」がいる、その目には映らない「何か」があることを、この書は教えてくれます。

今、メディアを賑わす、英語教育改革のフロントランナーと呼ばれるような人たちの「多く」には、天満が本書でしめしたような、「英語につまずく子ども」へ向けられた暖かいまなざしは感じられませんし、英語教育に関る者として、自分自身に問い質される、「罪深さ」や「畏れ」も感じられません。

本書を改めて読み直し、この第6回を書きながら、私の脳裏に浮かんだ二人の英語教師がいます。

ひとりは、加藤京子先生、もうひとりは組田幸一郎先生です。
「英語につまずく子どもたち」と向き合い続けた教師であると同時に、「ことばの教育」に対する「畏れ」を持っている方だと思っています。そして、英語教師の前に、まず「教師」として私に足りないものを教えてくれる「師」でもあります。

この二人が、本書を読んで、どう感じるのか、今度お会いした時にゆっくり、じっくり話してみたいと思っています。

  • “love and unhappiness go arm in arm”

本日のBGM: Town Cryer(Elvis Costello with Steve Nieve)