「ためにする教育」

昨日でELEC同友会のSWSが終了。
私は最終日、朝イチのワークショップで、入門期の文字指導から扱った。私の講座は中学校の先生が多いのかと思っていたら、高校の先生方がほとんど。高校の先生に文字指導、視写指導の重要性をわかって頂けただろうか…。アドバイザーの先生方では懐かしい顔にも会え、午後のマイクロティーチングのアシスタントアドバイザーとして手伝ってきた。今年は高校も3クラスと参加者が増え、大賑わい。私の合流したクラスでマイクロティーチングを行った先生方の英語力は極めて高い。このSWS中のそれぞれのワークショップで学んだことや他の先生のマイクロティーチングから学んだことなどを早速取り入れ試している人もいた。
教育実習生の授業を観るのとは全く別で、20分とはいえ、新人、ベテランと現職の教員の授業を観られるのはありがたいことだ。巷の英語教育批判で教師の英語力云々、というのはこのような先生方を見ている限りは全く当てはまらない。問題は、授業者として、教育者としての資質、技量、矜持、そういう類の資質を身につけるべく「もまれた」経験を積み重ねていけるかだろう。
先日、暑気払いにかこつけて、「英語教育にもの申す」の倫太郎さんと地酒を楽しむ席を設けた。お互いに遠くから出かけて、東京は大塚まで。三時間くらい話に花を咲かせただろうか。特に何がテーマ、ということもなく、おいしいお酒、肴を堪能した。倫太郎さんのサイトを読んだり、話をしたりすると、自分にない、または足りない資質がよくわかる。そして、家に帰ると、決まって大村はまなどの「教育者」や串田孫一や鶴見俊輔などの「哲学者」の言葉を読みたくなる。
英語教育、英語学習系の書籍、雑誌の無邪気さが気になると前回のブログで述べたが、陰山英男氏の著作などに端を発した反復練習、基礎基本をたたきこむというような教育技術をことさら大きく取り上げる風潮に私の警戒心は敏感に働くようだ。体験的学習では記憶は定着しない、などという前に、「三十五人の三十五の書き出し」(大村はま『やさしい文章教室』(共文社)や「教材は精選しておくこと」(『授業を創る』)でも読んでみてはどうなのかと思う。フィンランドがいいとなればフィンランド式、韓国の英語教育が成果を上げれば、韓国式と「隣の芝生は青く見える」うちは本当の意味での自分の足跡の見直しも難しいのではないか。

  • 教えよう、教えようと思わなくなっています、そういう気持ち、ためにするところなく読みに読む心の方がかえって教えるのに役立つことが見えてくるようです。(「教師自身がまず興味を持つ」『授業を創る』, p. 65)