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「慶應大・学習英文法シンポジウム」もあと10日と迫った。
私は今回討論者として指定されたので、現時点で公開されている登壇者の原稿、そして登壇者のこれまでの著作などを限られた材料として、それぞれの登壇者に聞いてみたいことを書き連ねてみる。あるものは単純・純粋な疑問・質問であり、あるものは異論・反論になろうかと思う。当日の議論は時間が限られているので、登壇者の方にも、お目通し頂ければと思う。
討論参加型司会者の柳瀬さんが、ご自身のブログに纏めてくれたものに対する質問や意見はまた日を改めて。
前回 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110814) 全体に投げかけた問いも再録。

1.登壇者それぞれが、英語学習者として「英語文法の体系」「英語という言葉のしくみ」を身につけたと感じたのはいつか?

その時に、自分が「捉えた」と思う英語のしくみ・体系は、それまでに学んできた部分の総体となっていたか?少なかった(精選・絞り込まれていた、圧縮・凝縮されていた、統合されていた) か?それとも、実像は掴みきれないけれども、それまでの総体を越えたもっと大きなものを感じたか?

2. 「学習英文法」というと、より整備された学校文法の体系にしろ、精選・簡略化されたものにしろ、やはり「全体」をどうするかという収束を目指すように感じるのだが、Lexical Approachで知られる、Michael Lewis (1993; 1997) のいう “language consists of grammaticalised lexis---not lexicalised grammar.” という捉え方についてどう考えるか?「使えない全体像・体系」よりは「使いでのある個々の積み上げ」というこれまでの文法観への痛烈な反論ともとれるのだが。

3.それを踏まえて、「ミニマムエッセンシャルズ」や「学習項目の精選」、「学習・指導順序」に関して、どのように考えるか?

以下、登壇者それぞれへの投げかけ。
江利川さんへ、

「英文典」の流れを、「学習者の益に」という具現化として、毛利可信『ジュニア英文典』 (研究社、1974年) があります。英語という言葉がわかっている人が、きちんと記述・解説すれば、こんなにも文法はわかりやすい、という希有な例だと思うのですが、なぜ、このような書が普及せず絶版となり、忘れられてしまうのか、いつも悩ましく思うのです。
日本 (人) の学習者に配慮したEFLの英文法学習教材や指導法が、明治期から数々生まれてきたにもかかわらず、それらがうまく活かされず多くの学習者が今日も「文法」を身につけられずにいるという原因・要因は何なのでしょうか?
教材の想定する学習者のレベルと実際に学ぶ学習者の英語力・レディネスとのズレ?
良い教材があるにもかかわらず指導者が未熟 (英語力・教授力) なため?
制度的に、所要時間が足りないため?
それとも他に何か?

「学び」の対極となる概念を想起する時に、「不学 = 学ばないこと」と「教授・指導 = 教えること」が想定できると思いますが、敢えて「不学」を選ぶ人は少ないと思います。では、もう一方の、「教える」側から文法を見直す際に宮田幸一 『教壇の英文法』 (研究社) は昭和の英語教師、英語教育にとって一定の役割を果たしてきたように思うのですが、どうでしょうか?江利川さんの評価は低いということでしょうか?この宮田の流れに、若林俊輔『高校生の英文法』 (三省堂、1984年)、若林俊輔『英語の素朴な疑問に答える36章』 (ジャパンタイムズ、1990年) があると捉えていますが、江利川さんの意見はいかがでしょうか?

齋藤さんへ

齋藤さんの一連の書籍での「達人」の記述、「伝統的な日本の英語学習方法」というメインストリームの遙か支流に、現在のいわゆる「進学校」を中心とした高校での英語授業が繋がっているように思います。
進学校では高校1年から高校3年まで毎年「文法」を授業で扱っているケースが多いように感じています。今回の指導要領「改悪」によって、コミュニケーション一辺倒となってしまった高校英語ですが、その大義名分を与えたのが、教育課程上は「オーラルコミュニケーション」の授業でありながら、文法を「体系的」に扱う、「英語G」という抜け道、または総合英語であるはずの「英語I」「英語II」という科目でありながら、その中で、文法を「体系的」に扱うという抜け道であったと捉えています。
この際に用いられていた (いる) 教材は昔で言う「グラマー」のテキストと大同小異です。
左ページに新出文法項目、右ページに例題と練習問題。たいていは、短文の空所補充完成、日本語訳。表現とは名ばかりで、整序作文に加えて、これまた短文の和文英訳が申し訳程度に配置されて、どんどん新しい文法項目へと進んでいくわけです。高1で導入された後、高2の2学期くらいまでに「テキストの範囲」を終えると、今度は大学入試の「過去問」を精選した教材でまた1年位を費やすことになります。こうした指導法をよしとする人たちの言い分は「体系的な学習」を終えてから「演習による完成」へということのようですが、「体系的」とは名ばかりで、「教師が自分の現在の視点から見た完成形」を目次的・逐次的に与えているにすぎないのではないか、と感じています。
このような「『鳥の目』で見た体系的な文法理解」が、齋藤さんのいう学習者の「足場」として機能するのでしょうか?齋藤さんのいう、足場としての「学習文法」の体系と何が共通で何がどのように異なるのか、その部分を詳しくお聞かせ頂きたいと思います。
というのも、斎藤さんの一連の著作での発言が、何の工夫改善もなく旧態然とした授業を続けている指導者にとっての免罪符となっている、またはこれから先なってしまうのではないか、という危惧を持っているからです。

田地野さんへ、

「意味順」は既に、私の高校での授業で使わせてもらっています。その中で気になることが幾つかあります。
一つ。「学習者の使用する日本語の確からしさ」に極めて、依存した学習・指導となること。
一つ。「意味順」とはいえ文以前の「語」の正しい理解、「句」を成立させる「語順」の理解に依存していること。

自分が思い浮かべる「意味」に当てはまる「英語」を並べる際の最小単位が「語」である以上は、その語を覚える際に「品詞」即ち「形態論的」理解・習熟を必要とするように思います。
とすれば、意味順で「文」を作る以前に、前提として身につけておくべき「知識・技能」があるのではないのか?そして、その前提となる「理解」は日本語を通じて行われることになるのだが、その学習者の日本語に依存した指導で大丈夫か?という思いを強くしています。

学習者の日本語に依存することの危惧として、たとえば、S+V+Cの文型の扱いがあります。叙述としての形容詞を日・英で対応させられている場合はよいのですが、「私の父は気が短い」などという、主語に何を立てるのか、述部となる「気が短い」を英語と対応させる際には、形容詞としての「語」の捉え方で、日本語と英語との表現形式の差異を踏まえておく必要があるように思います。
主部+述部といった、文を構成・構築する以前の課題としては、<名詞句 (とその限定表現)>があげられます。田地野さんが原稿で用いた文例でいえば、

  • The students in the computer room moved a big table into the corridor before the conference started.

という英文で、チャンクに分けた方が、逐語的な理解よりも優れている。その根拠に、マジカルナンバーという考え方を持ち出しています。
では、そのチャンクが理解できる前提としては何が求められるでしょうか?
なぜ、

  • ? the computer room in the students

はおかしくて、

  • the students in the computer room

が正しいのか、日本語を媒介として理解をしている学習者にとって、この程度の<名詞+前置詞+名詞>の「語順」ひとつ取り上げても、大きな壁があります。なぜ「崖の上のポニョ」であって、「ポニョの上の崖」は不可なのか、なぜ「かごの中の鳥」であって「鳥の中のかご」ではないのか、日本語を母語として習熟している者にとって自明のことを、日本語の「向こう側」から捉え直すことが必要だと思います。
意味順の指導を本当に機能させるためには、並行して<名詞句の限定表現>や<名詞句を拡充するためのしくみ>である、「句を成立させる語順」を理解することが必要で、そのためには<意味順マップ>に示されている<品詞・形態>すなわち、「語」に関しての<指導>が別立てで必要となるのではないかと思うのですが、どうでしょうか?

また、生徒は「意味順」のそれぞれのスロットに何を入れればよいのか、迷うことがあります。それぞれのスロットに何を入れれば文が出来上がるのか?という時に、学習者は「日本語」を用いて考えているわけです。
たとえば、目的語と補語との識別にこだわらないとすると、

  • Anne kept quiet.

  • Anne kept her promise.

とでは、keepという動詞の「意味」と「働き」に関して定義が出来なくとも実感としての理解が得られる可能性があります。ところが、

  • She broke her promise.

とは言えても、

  • * She broke quiet.

とは言えないわけです。

  • She broke the silence.

あるいは、

  • She stopped being quiet.

などという表現で意味を表すことになります。

こうしてみてくると、「意味順」学習というのは、何でも汲めるバケツであることを最初から放棄し、体系化とか網羅性を捨て、とりあえず、汲めるものを先に汲んでしまおう、という学習指標である、ととらえられてしまうのではないでしょうか?

「意味順マップ」に示されたような視点で「英文法」を捉える時に、学習者に現在地や全体像を示すことは、どのように可能で、どのように効果的なのでしょうか?それは、現在行われている「目次的・逐次的」指導とどのように異なるのでしょうか?
「学習英文法」確立の難しさは、学習者の視点・実感を体現することの難しさでもあると思います。outline とか outlook というものは、そもそもその実態の外側にいないと実感できないものでしょうから。
本来の意味での「学習者」の視点・実感での英文法とは、得体の知れない森に踏み入れ、迷ったり戻ったりしながらも、自分の中に、「自分の足跡の分だけの」地図を記録していきつつも、あたかも「外側」から見たかのような「全体像」な見取り図を描いていく作業ではないかと思うのです。
この点に関して、率直な意見を伺いたいと思います。

鳥飼さんへ

今回ハンドブック用に事前に公開されたこの「概要」は総花的というか、全く食い足りない、物足りないものだと感じています。まさに現在、高校現場で多く用いられている「文法のテキスト」の目次を見ているような感じがしますので、シンポジウム当日、どのように肉付けされていくのか、どのように論が結実していくのか見届けたいと思います。

綺麗に纏められた日本での文法教育の流れを眺めてみます。
パターンプラクティス、変形、PPP、TBLTなど、これまで流行を取り入れることに躍起になってきた英語教育界が、これまでの反省から、Focus on Forms ではなく、Focus on Formだ、と唱えるというのは言葉遊びではないのか、と思うことが時々あります。鳥飼さん自身、どの程度Focus on Form という考え方、そしてその言語教育へのアプローチを妥当だと信じていますか?

私の疑問は次のようなものです。
Focus on Form は抽象度の高い “form” という無冠詞単数形名詞を用いて、個々の具体例の集合体としての一般論である無冠詞複数形の、 “forms” との差異化を図った用語なのだろうと理解しています。しかしながら、そこでの「気づき」や「フィードバックの結果成功したアウトプット」の説明で用いられるのは、結局は冠詞の習得だったり、時制の習得だったり、適切な動詞の運用だったりと、結局 “a form” の話しに戻っているのではないか、という疑念がなかなか払拭できないのです。

教室でのinteractionを考えた場合に、「意味のやりとりが成立したけれども、focusを当てた言語形式には誤用が残っていたり、そもそもその言語形式を回避して意味のやりとりを成立させてしまった」時に、いったいどのように、そのfocusを当てた言語形式を「習得させ」、実際の「運用」に繋げるのか?そうなった場合には、目次的な文法シラバスでの徹底的な言語材料の教授の成果に劣ってしまうのではないか、という危惧があります。

また、Focus on Form は学校の一斉授業で学ぶ際に「シラバス」となりうるのか?たとえば、学習・習得する文法項目に難易度の差はどの程度あると認識されているのか?そして、学習者一人一人に文法の全体像・体系が出来上がるのはいつだと想定されているのか?いや、そもそも、従来の学校文法のような全体像・体系の確立を目指していないのだとすれば、個々の生徒・学習者の到達度、達成度はどのように評価するのか?

Focus on Formでは実際の運用を成功させる努力を通じて、言語形式への気づきを促すのである、といいます。たとえば、dictogloss はFocus on Formで有効な指導法の一例であるとしてしきりに取り上げられることで、日本でも今日ではかなり普及してきたように思うのですが、dictoglossと現実の言語運用とを比べた場合に、dictoglossはあまりにも不自然で人為的です。これだけ現実の言語使用とかけ離れた学習活動が言語習得に効果があるということが、現場の英語教師に示唆することはなんでしょうか?

教材・言語材料の精選と指導順序を見直す、ということは戦前戦後とずっと言われてきていることではないかと思います。そして、いまだ「答え」は出ていないようにも思います。
本来身につけるべき項目が100あるとして、それを重要度という秤で20に絞り込んだら、その20の習得は100を教えていた時よりも容易になるのでしょうか?そのメジャーな20の項目を支えて立たせるために、それ以外のマイナーな項目が不可欠であるということはないのでしょうか?
例えば、OgdenのBasic Englishはどうでしょうか?Graded Direct Methodでもいいでしょう。今日的な意義は?
例えば、語源。接頭辞、接尾辞を活用することで、丸暗記に頼らず、飛躍的に語彙を増やすことが出来る、などと英語の出来る人は言ってくれます。今回の登壇者である斎藤さんも、その著書で「語源」を活用することを薦めてくれています。では、入門者・初学者はどのくらいの語彙のサイズになれば、語源を利用・活用することが可能なのでしょうか?
語彙サイズでいえば、例えば、日本のコーパス英語学の成果とも言えるJACET8000。このコーパスは中高現場でどの程度活用されているでしょうか?
精選といえば、「語彙リストの精選」が思い浮かびます。この分野には先哲・先達というか巨人がいます。
Michael WestのGeneral Service List (1953)
そして、その改良版を目論んだ、
Roland Hindmarsh のCambridge English Lexicon (1980)
は、教室での英語指導において、また教材やテストの作成において、極めて有益な情報を与えてくれるものですが、今日、その利用を図っている英語教師はどのくらいいるでしょうか?今日会場に集まっている方の中で、英語を教えていらっしゃる方がどのくらいいて、その英語教育関係者のうち、この2つのリストをご存じの方がどのくらいいて、さらに自分で使ったことがある、という方がどのくらいいて、そして、今でも使っているという方はどのくらいいるでしょうか?
これが一つの事例、事実とすると、この事例、事実が示唆することはなんでしょうか?

山岡さんへ

「アルゴリズム (= algorithm; 問題解決・目的達成への段階的手順、反復操作)」という、英語教育の世界ではあまり用いられることのない「概念」がでてきました。その概念を用いると、多くのそれまで説明できなかったことが説明でき、お互いの共通認識が深まる、という利点がありそうです。
ただし、英語教育界の言説であまり馴染みがないということは、今回の登壇者だけではなく、私も含め、フロアーにいる方々はみな、この「アルゴリズム」という概念を今回のシンポジウムを機に「学んだ」と思うのですが、この概念が初出・新出事項だった会場の皆さんは、どの程度理解できているでしょうか?このような振り返りで、入門者・初学者が初出の「文法」事項を理解する時のプロセス、躓きを疑似体験できたでしょうか? (ちなみに、algo-は「痛み」や「苦痛」を表す接頭辞で、algor とは「悪寒」を意味する語です。)

「気づき」という概念が英語教育でも盛んに取り上げられ、「単なる知識」の獲得では不十分で、

  • 宣言的知識

だけではなく、

  • 手続き的知識

にならなければ、運用力に繋がらない。
という主張が力を持ってなされた時期がありました。「一連の段階的手順」の習得とはまさに、この「手続き的知識」の獲得といえるのかもしれません。
では、そのためには、「宣言的知識が学習者の視点と実感で整理・整備されていること」に意味はないのでしょうか?言葉遊びのように響きますが、「手続き的知識の宣言的説明記述」が有効ではないのでしょうか?そして、そのような「学習者の視点と実感」で整理・整備され、記述された英文法の教材はなぜ生まれないのでしょうか?

山岡さんは、算数・数学の例を取り上げていました。
「算数」「数学」の指導では、教材を精選し、指導法を変えてきた歴史があります。教科・科目の再編によって、指導の体系そのものを変えることを余儀なくされてきたこともあります。
その中で、「アルゴリズム」的な考え方を当てはめる時に、算数や数学では、学ぶべき、概念・論理は既に確立していることが前提となっています。にもかかわらず、指導法は大きく動くのです。ときどき、数学の分野の指導書を見るのですが、そこで、こんな一節に出くわしました。
「ですから、計算の手続きや、計算の仕方などをいくら丁寧に教えてあっても、また、それがよくできるようになっていたとしても、分数のわり算を考えるのに役立つものにはなりません。そういう手続きや計算の仕方を伝授してもらっただけの子どもは、「分数のわり算の計算の仕方について考えてみましょう」と言われても考えられません。/ 分数のわり算を考えるために何を教えておかなければいけないか、それを知っているのが専門家です。計算の仕方を教えているだけでは、分数のわり算の答えを出したり、計算の仕方を作り出せるようにはなりません。」 杉山吉茂『初等科数学科教育学序説』 (東洋館出版社、2008年、pp.15 – 18)
「わり算について知っていることをできるだけたくさん列挙せよ。」と言う問いでの講義からの抜粋です。
杉山氏はこうも言います。

  • このような指導をするとき、大事なことは、子どもに5という概念を抽象してもらうことを期待するのですが、そのとき、子どもが何を抽象するかはわからないということに配慮することです。抽象は子ども任せです。(中略) 極端なことを言えば、要素が5の集合をいくつか示す場合、白いチョークで黒板に図を書いて示すだけですと、子どもの中には「これも白い」「これも白い」 「これも白い」。だから「5は白い」と考える可能性もあります。そうならないようにするためには、白いものばかりを示すのではなく、黄色いものや赤いもの も入れて「これも5ですよ」として、5以外のものが抽象されないよう配慮することが大切です。(中略) 子どもに抽象することを期待するときは、違うものが抽象されないように配慮することが欠かせません。これが先生の仕事です。 (pp. 42-43)

「頭の働かせ方」を生徒に身につけさせる時、教師がどのような指導手順・指導法をとるにせよ、「子どもに抽象することを期待するときは、違うものが抽象されないよう」な配慮が必要だと思いますし、ベテランの教師、優れた教師はまさに、そういった配慮を授業の中でしていると思う訳です。経験の浅い教師、またはキツイ言い方ですが、力量のない教師は、問題演習のような定型の反復をひたすら課すことで、その配慮の無さを補っているのではないかと思うわけです。
では、英文法 (学習) の指導において、「違うものが抽出されないような配慮」にはどのようなものがあるのでしょうか?

大津さんへ、

母語を土台にした「ことばへの気づき」というのは何かロマンを感じさせます。私も、直観的に「いい」と思います。でも、母語としての日本語の直観でさえ、母語話者間でかなりの個人差があるのも事実です。

語彙に於けるlocal errorが、実際にはglobal communication gapを生むことがあります。
例1: 「せんたっきー」はなんであんなにおいしいの? (私の甥の幼少の頃の誤用です)
例2: 「おじぞうさま」でした。(これも私の甥です)
例3: 「想絶」な死を遂げる (これは私の以前勤めていた高校での教え子の書いたものです)

語形成・句構造というのは母語であっても理解、説明が難しいものです。
例4: ゆでたまご
例5: たまごやき
例6: 航空券
例7: 搭乗券
例8: 黒山の人だかり
例9: ?人山の黒だかり
例10: パリ-ダカールラリー
例11: バナナワニ
例12: ワニバナナ
例13: ? ワナナバニ

統語的な現象を認識・理解する際の拠り所となる母語の実感にも個人差、地域差、文化差があります。
例14: 「ほる」という動詞の目的語としては「イモ」「穴」「地面」などが想定できます。これらをすべて「目的」とか「動作の対象」とか「力が及ぶもの」という認識が出来るでしょうか?
例15: 「はく」という動詞の目的語としては「靴」「ズボン」「スカート」などの衣類が想定できます。では<「手袋」をはく>、北海道の人は、この「はく」という動詞をどのようにとらえているのでしょうか?イメージやコアでうまく説明できるのでしょうか?
例16: 「なおす」という動詞の目的語としては「傷」や「故障」が考えられます。ところが、山口のように「自転車」をなおす、という時に、その自転車がどこも故障していなくても使える地域・文化があります。この場合、文脈から単に「かたづける」と言い換えたのでは「なおす」という動詞を山口の人がどのように捉えているかを十分に説明したことにならないように思います。

母語である日本語でさえ、そこで狙いとされる「気づき」が前提とする言語事実とその理解には揺れというか幅があります。では、英語の学習、英文法の学習においての「気づき」はいつ、どのような局面で得られるのでしょうか?適切な教材を与えておけば「気づき」が得られると信じる楽観的な人はあまり多くないと思います。
今風の英語教育では、raising awareness とか consciousness-raising activities などとしたり顔で言ってくれますが、何をどこからどこまでraiseできれば教授者も、享受者としての学習者も成功といえるのかを示してくれる学者は殆どいません。常に、「このような気づきが求められているのですよ」ということを示しているだけの、後出しじゃんけんをしているだけのような気がします。

拙ブログの過去のエントリーから抜粋します:

  • 教室に30人、40人いる生徒一人一人の発達段階の差に応じた「気づき」を、インタラクションをさせる中で教師がしっかりと観察し、手当てができるように設計・準備されたタスクが満載の教材と1年間、たとえば、3単位で50分授業、年間90コマ程度のシラバスの実例、ひいてはそのようなシラバスを3年間経た学習者が身に着けられる英語力 (4技能個々、あるいは技能連関で) の具体的な記述、"Can-do"のような具体例を誰か見せて下さい。

最後に、大津さんだけでなく、全ての登壇者にお聞きしておきたいことが一点。

近年、既に母語で学習者が持っている言葉に関する理解・知識・直観を出発点として、母語による言葉の記述である「フィーリング」を活用し、「コア」や「イメージ」などの映像、を拠り所とした英語学習が大きく取り上げられています。こういった指導法を受け、「目から鱗がおちた」「なぜ、学校ではこういうことを教えてくれなかったのだ」という学習者の声もよく聞きます。が、このような「フィーリング」や「イメージ」に依存した指導法に非常に危ういものも感じています。
みなさんは、このような「イメージ」や「フィーリング」、「コアミーニング」といった指導法をどのようにご覧になりますか?

詳細な議論討論は、当日のお楽しみ。
9月10日が本当に待ち遠しいです。

本日のBGM: 青い鳥 (原田知世)