扁平足

『英語教育』9月号を読む。
特集は「徹底検証 英語の『常識』『非常識』」。
ferrierさんから、卯城先生のリーディング論を読むべしとのコメントが寄せられていたので、期待しつつ読む。慧眼。
この卯城先生の小論は、まず結語にあたる「おわりに」(P. 26)の、

  • 「英文が読めた」というのは、何をどう理解できた時に言えるのだろうか。日々の指導を再検討したい。

という言葉から読み起こすのが良かろう。
重要な視点がいくつも、WHATとHOWのバランスが極めて良く語られている。なかでも、このブログでも執拗に扱い続けてきた「和訳」「訳読」に関して、「和訳先渡しは万能だろうか?」という項での、

  • ただ和訳プリントを先に配っただけであれば、それは「和訳先渡し」ではなく、「読解指導先送り」である。

という指摘には全国の高校英語教師は立ち止まって考えるべきであろう。
さらには、「低頻度語は高頻度語より難しいか?」という指摘は、まるでコーパス全盛であるかのような今風の語彙指導の中にあっては新鮮に映るだろう。学習者の目線に届くには、もう一歩、日本語でそれと同じ内容の語彙をどれだけの頻度・親密度で使用しているかまで考察して欲しかった。
「未知語の推測」に関しては、

  • 「文脈」とか「前後関係」という言葉ほど曖昧なものはない。

という指摘をリーディングを専門とする英語教育学者から聞けるとは思わなかった。拍手!
私のリーディングに関する主張はかねてより繰り返しているように、

  • パラグラフの理解、行間を読ませる指導
  • 処理と保持を効率的に行えるチャンクの長さ
  • 個々の語彙へのアクセス能力

の個人差に対応した指導を教室での一斉指導のなかで行う際には、日本語に頼ることは不可欠ではないのか、そしてその際の日本語の利用を是とするのであれば、内容理解確認での日本語の使用を非とする理由は見あたらないのではないか、ということである。(過去ログを読まれる方は、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060310 , http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060531 あたりから手始めにどうぞ)
この卯城小論のレベルまで、世間でのリーディングに関する考察が成熟してくれれば健全な議論を戦わせることが可能だろう。本当の意味での現場のダイナミズムをよくわかっているなぁ、としみじみ。卯城先生が優れた学者であるだけでなく、アカデミズムの場である大学と中高現場とのインターフェース役として、卯城門下生が優れた英語教師として育っていることを伺わせる小論であった。久々に、読んでいて清々しさを感じた。

この特集の他の記事では、工藤洋路先生の「ライティング」に関する論考が興味を引く。計6点の問題提起である。

  • global errors vs. local errors
  • fluency vs. accuracy
  • quantity vs. quality
  • grammar for writing vs. writing for grammar
  • 現行のparagraph writing 指導そのものの持つ問題点
  • 読み手の設定

どれか1つだけでも、本気でとり組んでもらえれば、日本のライティング論は借り物ではなく地に足のついたものになると信ずる。今回の工藤小論を読んで、ようやく、若い世代にバトンタッチができそうな思いを持った。
そのためにも、国内での実践をもっと共有しようではないか。
先日の全国英語教育学会でも優れた研究発表があった。伊藤健三賞、ELEC賞、中村賞、英検助成研究、など英語教育に特化しても多くの賞があり、受賞論文や著作は広く世に知られることになる。SELHi報告なども含めれば、近年ではライティングに関して優れた論考も多く見られるようになってきた。しかしながら、そのような優れた研究の末尾で示される参考文献のほとんどが海外のものであるのはどうしたことか。「海外ではこうなっている、こういっている、そこで国内では私が手始めにやってみました」という研究にも意味はあろう。では、その研究を足がかりに日本でのライティング指導は改善されていっているのだろうか?国内の研究者、実践者が相互に信頼を持って研究、実践を積み上げていっているのだろうか?自戒を込めて言うが、キャリアのための研究発表の垂れ流しでは意味がないのである。国内で優れた10の論考があり、そのほとんどに同じ海外の参考文献・先行研究が取り上げられている、しかしながらその国内の10の研究者はお互いの研究に関して直接言及したり、評価したりすることがない、という状況を若い世代は変えていかなければならないのではないか。
最後に気になる論考を。
八木克正氏の

  • 「教室英語」を見直す

というタイトルはいかがなものか?「教室英語」というタームで一般に想起するのは、Classroom Englishという教師・生徒、生徒・生徒のインタラクションで用いられる英語、ということではないのか?
さらに言うと、結語の、

  • 日本で受験勉強のために教えられる文法規則は英語嫌いを助長するばかりでなく、学習者の英語の感覚を鈍らせることを認識すべきである。

という部分には強烈に違和感を覚える。受験勉強とは無縁の、進路多様校や教育困難校であっても、英語の授業は存在するのである。そのような現実をご存じないのだろうか?関係詞の whoとwhatの用法に代表されるような日本国内における語法の実態が現代の世界水準からはずれていることが、日本の多くの中学生高校生が英語を身につけられない原因なのだろうか?
コーパスの活用はここ10年で飛躍的に利便性を増した。個人で構築することも容易となり、既存の巨大コーパスを利用することも可能である。インフォーマントの協力もe-mailの普及で容易になった。結果、「日本の教室で扱われている英語のここがおかしい」という指摘は掃いて捨てるほど増えてきた。では、「現代の英語の実相に照らして正しい英語を扱う教材と辞書」を用いることで、どれほど日本の学習者の英語習得は容易になったのだろうか?
私は10年以上前から、比較の文法項目で扱う例文として、

  • Who’s the most reliable, Frank or Alan?(フランクとアランではどっちが信頼できるの?)

関係詞の例文として、

  • Christopher Columbus has mostly been who people wanted him to be.

というような英文を教室で用いてきた。しかしながら、それによって、学習者のこの項目の習熟が容易になったという実感は全くない。あくまでも、教授者として、後ろめたさを感じない、という程度のものである。問題は、そういう用例・例文をもとに、どのような指導・練習を経て、学習者に文法や技能を習熟させるのか、ということであり、その点では教室での苦労はほとんど変わらない。八木氏の今回の論考は、Question Boxで示される情報からどの程度踏み込んだものと言えるのだろう。
今回の特集で、卯城氏、工藤氏、八木氏の論考を併せ読む中で、学者とはどうあるべきか、教師とはどうあるべきかという内省の機会が得られたことは喜ぶべきことである。
教師としての矜持を揺すぶるのなら、英語教育とは無縁の雑誌だが、
『潮』9月号を是非。

  • 鶴見俊輔・重松清「子供たちに必要な“二つの物差し”」

鶴見氏はゲマインシャフトから進んで、次のような発言に、

  • だから、彼(=夏目漱石)がイギリス留学中に取り組んだのは自分が出した問題であって、イギリス人から出された問題じゃない。ここが重要なんだ。/いまの日本人留学生は違うでしょう。いまの留学生はアメリカ人が出した問題を出発点として取って、そして有力な仮説を日本に持ち帰り、ちょっとかたちを変えて証明する。だから率直に言っていまの日本の大学は“アメリカン・ユニバーシティー”だと思うね。

カモノハシの話からは、

  • “箱からこぼれる”、それが思索の始まりなんです。たとえばカモノハシという動物は他の哺乳類と著しく異なる点が多いでしょう。そうすると、カモノハシの発見によって分類全体を考え直し、新しい分類の体系を考えなきゃいけない。つまりそれまでの定義に合わないものが出てきた時が思索が前進するときなんですよ。

という展開。この対談だけは、この雑誌に対する先入観を捨てて虚心に読まれることを薦める。

本日のBGM: アイデン&ティティ(みうらじゅん)