泣き虫なまいき夏目漱石?

最近、柳瀬陽介氏のサイトで中村敬氏のブログを知り、度々訪問している。そこで紹介されているコラムに、井上ひさしの『國語元年』再読に基づく回がある。母語や言語について改めて考えさせられる。井上氏が折に触れ指摘している「ふりがな(ルビ)」の神髄をこの戯曲でも味わうことができる。日本には英文和訳や訳読の功罪を論ずる英語教育学者はいるが、和訳・訳読の功や徳そのものを研究する英語教育学者はほとんどいない。なぜなら、海外にモデルがほとんどなく、研究成果も日本以外では認められ難いから。漢字仮名交じりの日本語の書き言葉を理解する上で「ふりがな」をどのように学習者が処理しているのか、意味と音韻の関係はどうなっているのか、などの日本語研究の知見を踏まえた上で、読解練習に於ける対訳の効用や映画教材のリスニング練習に於ける字幕スーパーの効用などを英語教育の視点で吟味しようという若い人が出て来てくれないだろうか。
学生や若手の教師は、古い教師にはない感性と最新の学問的知見をもとに、現代の英語教育を体験することになる。期待と不安。自信と自己嫌悪。残念ながら若さそのものにはそれほど価値はない。ただ、若さの生む旺盛な行動力や、(往々にして)根拠のない自信などが、未曾有の大発見を生んだり、既成の英語教育観に風穴を開けたりすることはある。生意気盛りなら、勢いよく駆け抜けるのが良い。
私が2003年に全英連の東京大会で発表をしたときに、学生から次のような感想が指導助言者のO先生に寄せられた。

  • 両日とも参加していて、実際あの分科会に行くまでは、日本の英語教育のレベルの低さに、予想はしていたものの愕然としていました。ラピッドリーディングの分科会にしても、初日の模擬授業の合評会にしても、全く内容が無いというか、何も得る事が無いまま失望だけして帰るのかと思っていました。教師自身に英語力が無いのは言うまでもありませんが、それぞれの教室内で研究されている事に、理論が全く成り立っていないという現実は、英文学や教育学・国際関係学を専攻して英語教師になった人の決定的な致命傷だと思いました。はっきり言って、どの発表も突っ込みどころ満載で、説得力ゼロでした。しかし、昨日のライティングの分科会だけはとてもinspiringでした。決して今までのオーソドックスなスタイルにとどまらずに、ライティングの可能性を示唆する中で、しかし日本のcontextにおいてその取り扱い方に注意する事など多岐に配慮されており、同意できる点が非常に多かったです。また松井先生の発表は、私がアメリカの高校で受けていたネイティブの英語授業にとても近いものがありました。確かに十分に日本の背景を配慮したとはいえ、やはりライティングが単なるgrammarやsyntaxに重きを置かれたものとしてではなく、whole languageとして扱われており、thinking through writingという視点が見失われていない、本当に賛成できるものでした。

このような高い問題意識を持った学生も今では現場で経験を積み重ねているはず。理想に燃え、日本の英語教育を変えようと志したその視点と、なかなか思うようにならない自らの立脚点のバランスをどうとるかに悩みを感じることもあるだろう。でも、それが自前の教育哲学を育むのである。
このブログはいちおう「英語教育の明日」がタイトルについてはいるものの、時流に乗ろうとか、後押しをしようというものではまったくない。むしろ、流れに逆らう物言いが多いだろう。国語教育や母語教育についての言及が多いのは自分でも分かっている。これは、自らの母語学習・母語習得を客観視することなしにはSLAやTESOLなどといくらお題目を掲げたところで上滑りに終わるだろうとの自戒でもある。比喩によって却って本質を見落とす可能性があることを重々承知の上で、次のような事例を考えてもらいたい。

  • 普段ジャンクフードを多く食べている現代人が「クエン酸が体にいい」と知って、毎日サプリメントとしてクエン酸を摂取していたのだが、お盆で帰省した際に、祖母から日本の伝統食である「梅干し」にも多量のクエン酸が含まれていることを教わり、食生活の改善から取り組み始める

このようなことは国語教育や母語教育と外国語教育の間にも成立可能だろうということである。国語の例に限らず、このブログの言説を通して「英語教育の明日」を担う若手に、視点と立脚点のバランスをとるヒントくらいは提示できれば幸いである。
自前の、地に足のついた研究と教育、借り物ではない、国産の英語教育への志しは今も昔も変わらず青く、生意気盛りだと思っている。
夏の終わりに、海に行く機会もなく、戯れる蟹も見あたらないので、とりとめもなく綴ってみた。
あの日の学生さん、もしこのブログを読んでいたらメールを下さい。

本日の読書:小林信彦 (2006年)『うらなり』(文藝春秋)