面白くないのは訳読のせいか?

山岡氏のサイトにリンクを張ったことで、彼の掲示板で和訳の是非をめぐる議論が始まっている。
どうも、「是非」(「可否」でも「功罪」でも同じことなのだと思うが)とスレッドを立てたことから、議論が突き抜けていかないのではないかと懸念している。(私のブログの記事、私の見解に関しては、12月4日分を参照下さい。そこに過去ログも記してあります)
しばらくは自陣にて静観しようと思うのだが、1点だけ。
旧来型の学校英語教育が成果を上げていないことの一因として訳読をあげ、訳読がなぜ成果を上げていないかという理由として、「面白くない」ことをあげている人がいるのだが、果たして面白くないのは訳読のせいなのだろうか?
力量のある教師に、適切な時期に、適切な教材と、適切な時間配分で教われば、訳読であっても充分面白く感動するのではないのか?
と、今私が言った文の中だけでも、

  • 教師の力量(英語力+授業力)
  • 学ぶ時期・発達段階
  • 教材
  • 時間
  • 教授法

といった変数が絡んでいる。そしてここでは、学習者側の才能や努力などは不問であり、この要因も考慮に入れればものすごい変数の組み合わせとなる。
学校英語教育にEGP (English for general purpose) の役割とESP (English for specific purpose (s)) の役割の両方を担わせてしまうから不幸なことになるのではないか?EGPのGに関して、国民的コンセンサスどころか専門家のコンセンサスさえ得られていないことに加え、ESPになるとPsの変数が尋常ではないので、TOEICのスコアを伸ばしたら伸ばしたで、「TOEICのスコアがいくら高くても、実際に英語が使えない」と反論する人が出てくるし、英検の2級を取得したところで、「英検は日本でしか通用しない」「英検でしか目にしない単語が多い」などと反論する人が出てくる。「学校英語教育の成果が上がる」ことを認めたくない人たちは消えることがないのである。
ビジネスで英語を駆使している人は「英語教師は実社会での英語の運用経験が希薄である」ことをもって、英語教師の英語力をやり玉に挙げるが、批判の対象となりがちな全国の公立高校の英語教師の英語力であれ、それと同等の英語力を生徒が高校卒業までに身につけられたとすれば、当面はそれで学校英語教育は充分成果が上がったと言えるのではないのか?私自身、ビジネスで英語を駆使することはほとんどない。授業に必要な教材を自作する、または教科書など教材の作成で英米人スタッフライターが書いた英語の文章や設問に朱を入れ、教材として適切な文章へと軌道修正するくらいである。ビジネス派に批判されても、「ビジネスに必要な英語力は、自前で努力してその仕事に就いて下さい」としか言えないなぁ。無責任なようだが…。
トレンド、趨勢に巻き込まれて、紋切り型・常套句による議論に陥るのではなく、新たな地平に突き抜けるためには川の流れからいったん引き上げることも必要である。