A is for Acrostic or Aladdin?

tmrowing2012-04-17

「常時英心」でUG先生が紹介された、阿川弘之『井上成美』を古書で買い求め読み始める。河村重治郎や岩崎民平の評伝とも、秋山敏の言葉とも違って、ひたすら圧倒されまくり。ちょっと間隔を置いて読まないとダメだなこれは。

商業科2年は、「仕込み」の段階で、写真撮影の邪魔が入り途中で終了。明日仕切り直し。
進学クラス2年は、2コマを使って、「作問」。
私ではなく、生徒がグループで内容理解、主題の把握を問うquestionsを「作る」課題。今回は初回なので、お膳立てをしています。
まず最初に、絶対やってはいけない質問の例として私が英文を一つ読み上げ、何が求められている課題なのかを考えさせるところから。グループで知恵を出し合おうにもなかなか思うようには進みません。そこで、教科書を開かせ (この教科書を授業中に開くこと自体、このクラスは入学以来初めてではないか?)、Part 1の印刷されている頁の脚注などが書いてある部分で、既に教科書の著者が用意した「内容理解を問う設問」を読ませる。するとそこには、先ほど私がダメ出しした英文とまったく同じ英文が書いてあるじゃないですか!
注意点を踏まえた上で、質問を4つ作らせます。フィードバックを与える代わりに、私がPart 1全文をパラフレーズした英文をホワイトボードに貼り、それを読んだ後、仕切り直しで再度作問に挑戦してもらうという流れです。
2コマ目がはじまる前までに生徒は板書完了。その黒板に並んだ英文を私が添削しながら解説。

  • 適切な質問の英文を作れる、ということは一文レベルの文法的正確さが身についている証。
  • 答えるべき情報の絞り込みが、質問の英文の中できちんとなされているか?Wh-の質問で、あまりにも「オープン」だと、主題や物語の核心に届かずに終わってしまう。
  • 人や物ではなく「ことがら」を答える場合に、その「ことがら」を引き出せるような英語表現になっているか?
  • 助動詞の番付表の確認が出来ているか?事実なのか、可能性なのか、過去なのか、現実離れなのか?
  • 本文中の表面的な情報を答えてもらっただけで、本当に理解が深まったことを確かめられるか?

というようなやりとりを経て、私の用意した設問の英文をディクテーションさせ、自分たちの書いた英語表現との比較検討。どこに目をつけて、何を問うか?使いこなせる文法項目も確認します。この先は、Open vs. Closedや、Literal vs. Inferential、Local vs. Globalなどの質問の類型も押さえながら、この1学期間をかけて徹底して行く予定です。
次回は、

  • その質問の答えとなる内容を適切に繋いでいけば、本文の言い換え・要約になる。

という目的地の設定。今日の授業の最後に生徒に念を押したのは、

誰かにお膳立てしてもらった「設問」に答えるから読みが深まり理解が深まるのではない。自分で問いを立てながら読み進めるから、深いところまで届くのである。常に、一つひとつ部分の記述を確かめ、統一した主題を浮かび上がらせながら読み進め、その統一した主題を元に、更に細部を深く掘り下げるのが読解の姿。

ということ。「どこが幹でどこが枝葉で、どれが芽でどれが実か」ということは自分でその木を辿り、森を歩くからこそ分かるものなのですから。悩み処では悩むべし、迷い処では迷うべし。

準備室で同僚と多読指導・読解指導に関してあれこれと雑談。

  • 新高2の生徒は「英語 I」の教科書はまだ第4課をうろうろしているのに、なぜ、サイドリーダーは英検2級レベルのものを読み切ることが出来るのか?

という部分をじっくりと考えてみれば、巷でいわれているような「先取り」をする必要など全くないことが分かるというもの。
このブログのアクセスも1年でこの時期くらいは、ぐっと増えるのですが、今年度多いのが、

  • “copper ball”

  • “Element Reading Skills Based” “訳”

という検索ワードです。copper ball の方は、まあ、そうだろうな、と頷けるものです。過去ログを辿ってもらえばかなり詳しく書いていることが分かると思います。このアクセスは恐らく、この教材で教えている方が調べに来ているのではないかと思っています。私としては、「教科書の記述に対する批判」という読み方ではなく、教科書本文を読んで教師が感じた疑問とか違和感がある場合に、それをどのように解消・解決しようとしたか、というところをこそ読んでもらいたいという思いはありますが、まあ、受け取り方は読む人それぞれ異なるでしょうから、どう読まれようが構いません。
でも、「訳」の方は、きっと、この教材で学んでいる「生徒」が見に来ているのではないかと思うのですね。教師なら、指導書があり、そこには対訳がついているでしょうから。
未だに、

  • その課が始まる前に、生徒がうんうん唸って「日本語訳」を準備することを求める授業

や、

  • その課が終わったにもかかわらず、生徒が困って「日本語訳」を求めるような授業

がなされているとすれば極めて残念です。この様な状況は、

  • いわゆる「訳読」に確固たる信念を持つ教師のリードによって、「一文ずつ訳して読み進め」てはいるものの、文以前の段階の、「語彙」や「表現」の扱いが不十分であったり、文を越えた「談話」や「論理」の構造に対する指導が不適切であったりする授業

の場合に生じる、ということは想起しやすいでしょう。世間での「文法訳読批判」を招く元凶といえるかも知れません。でも、その対極にあるような「今風」の授業でも、充分に起こりうるのです。

  • 「英語は英語で」が大好きなAAO派の教師による授業で、設問に答えられた生徒が比較的多く、一部の生徒がパラフレーズやサマリーをできたことで、その文章の理解が済んだと見なして通過してしまう授業

でも、設問に答えられなかった生徒が、何が読めていないのか、何を読み誤ったのか、という部分が手当てされなければ、生徒は「和訳」を頼りに、その英文を理解しようとするでしょうから。過去ログでは新指導要領の謳い文句に対して、こう書いています。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20081223)

それでは、そのパラフレーズやサマリーで生徒自身が用いる英語はいつどのように身につけ(てい)るとお考えなのか?そして、生徒のパラフレーズが不適切、 不十分だった場合に、その修正・訂正をも英語で行う効率の悪さをどのように補うのか?そもそも、他の生徒が行ったパラフレーズの意味が理解できなかった生徒に、どのように意味を理解させるのか?

この過去ログの更に元にあるのは、かつて「セルハイフォーラム」に出席した際の質疑応答です。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070303)


仮に、授業や試験で生徒に「和訳」することを求めるのなら、教えている教師自身が責任を持って「自分で日本語に訳したもの」を用意するべきだし、「和訳」を排し、英問英答など、設問に答えることを読解と見なして授業を進める場合には、なぜ、その部分は読めなくても構わないのか、という種明かしをきちんと「日本語で」解説しておくべきではないかと思います。そのどちらにしても、「試験」では、同じ英文を用いて和訳を求めたり、同じ英文を用いて英問英答を課す、というのでは適切な「読みの力」を測ったことにはならないでしょう。授業後、テスト前に生徒が英文から離れて「和訳」の確認に忙しい状況というのは、歓迎できません。

「アクセス解析」で言えば、今日になって急激に増えた検索ワードは、

  • バックワードビルドアップ (backward build-up)

このブログでは「バックワードビルディング」という呼び方で書いている回もあるかと思いますが、この記事 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080411) はちょうど4年ほど前のものだし、こちらの記事 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060501) になると、6年近く前になります。ただし、用語はともかく、この手法そのものは、私が学生時代に教科教育法でT先生 (= M先生) に教わっていたので、私が教壇に立った当初から普通に授業で使っていたと思います。というわけなので、「何で今さら?」と思ったら、某局の番組でN先生が実演していた模様。

『英語教育』と『新英語教育』ともに、5月号を購入。
大修館の方の特集は「帯学習」。「積み重ね」で「コツコツ」は確かに大事です。細切れの断片を長いスパンで繋ぎ紡ぐもの、というのは理解できるのですが、だからといって、特集の記事が1頁の「断片」では、読み手の側で紡ぎようがないだろうと思います。1頁に凝縮した実践を綴っている人がいる一方で、たっぷり3頁を使って丁寧に記述している人もいます。執筆者のバランスを取ることを第一義とするのではなく、一人が一つのネタで書く分量をもっと多く与えないと、せっかくの良い実践でも読者に満足に伝わりません。編集サイドも随分若返ったのではないかと推察しますが、毎月掲載するほどでもない連載は隔月にして、その分「特集」の頁を増し、その価値を高める方向で検討してくれたらとないものねだりしておきます。来月号の特集は新課程の「表現」とのこと。執筆陣を見て期待は高まります。
もう一方の、新英研伝統の「自己表現」の特集は一人3頁と均等割付。「表現」と謳う以上、生徒のproductが示されることを読み手は期待するでしょう。でも、本当に共有する価値の高い実践なら、3頁でも足りないように思います。今月の特集の小美濃博氏の「巻頭論文」は3頁。特集のあとの連載記事「新英研の宝X教材のチカラ 第38回」の執筆者も小美濃博氏で3頁。これはどうなんでしょうか?
その他、連載記事から気になったものをいくつか。
「教科書の創造的な扱い方」の中学1年 (pp. 30-31) は、柏村みね子氏の執筆。最後の項で、「数字を『読むこと、書くことの楽しさ』に出会う教材」が紹介されている。

  • Happiness is a warm puppy.

このシリーズは、私も使っているもので、中学生だけでなく高校生にとっても愉しく英語を学ぶ「教材」となり、生徒の個性や「創造力」を活かしたり育んだりすることのできる1冊であることは間違いない。しかしながら、この本の「教材」としての良さは、数字の扱いではなく、

  • Happiness is + 名詞相当語句

として、「名詞、名詞句の限定表現、動名詞句が、英文の中で同じスロットに入るものとして無理なく認識できるようになる。」という部分ではないかと思っている。シリーズには同様に “Love is ….” があり、”Security is ….” がある、がしかし、これらはどれもタイトルにあるような『教科書』ではないことには注意が必要である。
「鈴木政浩の私の本棚」 (p. 44) では、

  • V. L. Holmes & M. R. Moulton, 2001, Writing Simple Poems: Pattern Poetry for Language Acquisition, Cambridge University Press

が取り上げられていた。既に初版から10年以上が経っているが、今ならAmazonで「なか見!検索」ができるので、是非覗いてから購入して欲しい。できれば、pp. 2-3 の “Why write poems?” から、 “Poetry promotes language acquisition” の部分をまず読んでいただきたい。
http://www.amazon.co.jp/Writing-Simple-Poems-Acquisition-Cambridge/dp/0521785529/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1334668994&sr=1-1
私の定番実践である、”Acrostic” もこの本から学んだものである。(pp. 15 - 20)

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060206
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070109

他には、 “Beginnings and endings poem” (pp. 47 - 50) もパラレリズムや対比を身につけるのに効果的な手法であり、よく使わせて頂いた。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060110
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060115


まさに、多くの英語教師に手にとって欲しい一冊と言える。

京都のY先生繋がりで、某県の高校から「ライティング」関連で指導助言の依頼の電話が。Y先生に指名されたのでは断る訳にはいかないのだが、タイミングが本業のメインイベントと、正業の「山口県英語教育フォーラム」と重なりそうで即答できず。こちらの動けそうな時期とメールアドレスをお伝えして、先方に再考して頂くことになりました。お互いが頷ける取り組みになるといいのですけれど。
晩酌無しで早めの就寝。
本日のBGM: Calling (Blue)