朝は立哨から。この立ち番をしていると、朝の連絡会の伝達事項などはわからないので、主任にメモをお願い。普通は副担任が代わりにHRに行ってくれるのだが、金曜日は副担任が0限なので、立哨後、すぐにメモを受け取り朝のHRへ。慌ただしいなぁ。
授業は時間割変更で少々変則。集中力がない。いきなり1限から寝ている不届き者がいるので中断。顔を洗って出直して来なさい。命の無駄遣いだ。もったいない。まともなのは高3くらい。
昼はスタッフ会議。夏の勉強合宿の打ち合わせ。今年は、地元の国立大学の医学部部長さんに講演をお願いした。医学部志望の生徒といえども、普段はなかなか直接お話しを聴く機会はないだろうから、問題意識を持って臨んで欲しいと思う。
午後は高1。前回、反省モードだった彼らには、筑波大付属中の1年生が使っているハンドアウトをコピーして配布。入門期の中学生がやっていることと、自分たちの取り組みとを比較してもらった。自分で気がつきなさい。
放課後は地元中学校の先生に来校していただいて、文字指導・書写指導についての情報交換。ハンドアウトやワークシートで使用する英文フォントの話しに加え、日本のペンマンシップとは全く異なる指導理念に基づく参考文献の紹介などをさせてもらった。中学校で十分指導ができていない領域なども確認できたので、私の方が有意義な時間だった。今後ともよろしくお願い致します。
その後、6時から7時前まで、テスト前で居残り自主学習中の生徒の質問タイム。数学など問題演習が出来不出来を明示的に示す科目だけでなく、基本的に問題演習をしない英語という科目にもこのような時間を割くことが大切、というか不可欠なのだ。読んで訳して、で分かったつもりになっているから、肝心な問いを立てる力も育たないのだ。
7時前に、校内巡視の週番活動。明日から天気が崩れるという連絡をHRでしてもらっているはずなのに、いたるところ窓が開けっ放し。ひたすら閉めて歩く。
7時から9時までは寮の当番。どこまで働けば気が済むのか、というくらい学校で仕事だなぁ。
さて、
「『教科書』はどこへ行った(その2)」からしばらく間が空いたが、「教科書」採択の決定時期だろうから思いついたことを忘れないうちに書いておきたい。今まで言ってきたことの繰り返しも多かろうと思うのでこれ以降はスルーして頂いて結構。
検定教科書とTreasureという非検定教科書、O文社の入試問題正解の解答解説、東大入試に特化した『東大特講リスニング』などの執筆、入試とは一線を画しているが入試問題も解けるようになるGTEC Writing Trainingの監修などmaterials writerとして少しは経験を積んできて改めて思うこと。
- 高校の英語の授業は過去問演習の下請けになってはいけない。
過去問演習をするなと言っているわけではない。認知学力が高く、難関校といわれる大学を志望する生徒の多い、いわゆる「進学校」においても、良心的な指導をして英語力をつけることに腐心している先生方が多いことは知っている。しかしながら、相変わらず、
- 志望校の過去問を手に入る限り全て解き、精読も音読も構文も文法も語彙も徹底的に復習をして、まだ本番の試験までには時間があるのだが、この後英語の勉強は何をやったらいいのか?
などという学習者も生産し続けているのが現実である。
いつまでも巣立てないヒナ鳥のような学習者では、自分の教師を「恩師」と呼ぶ日は来ないだろう。
最近、3冊作文の参考書を読み返した。
- 『英作文研究』(山田和男著、文建書房、1952年)
- 『英作文の研究』(古瀬良則・岩田一男著、旺文社、1965年)
- 『新研究英作文』(長谷川潔著、旺文社、1979年)
昭和30年代から昭和50年代にかけての受験指導がどのようなものだったかを改めて認識した。英作文の指導の場合は、入試で要求されるある程度こなれた和文を英訳することを最終目標とし、それにいたる下位技能としてのsentence level accuracyを著者オリジナルの必修例文の暗誦、やや短めの和文を元に和文和訳をして英語の文構造に近づけての英訳課題などで養成していくという大きな流れがあったように思う。
これに対して、「英文読解」の分野では、どうだったかというと、原仙作氏の古典的名著『英文標準問題精講』(旺文社)、その上級編とも言える、『二十世紀英米文名文選』(北星堂)、多田幸蔵氏の洛陽社の一連の著作や佐々木高政氏の『英文解釈考』(金子書房)など、過去問の設問を解くのではなく、その出典たる英文を示して、その英文を読むことに徹しているものが主流であった。伊藤和夫氏の『英文解釈教室』(研究社)もその延長にあり、氏の晩年の著作『ビジュアル英文解釈』(駿台文庫)のように、解説を施す切り口が授業における教師と生徒の対話を模していても、「読み」に拘る点では一貫している。個々の設問への対応は、著者の解説の中に吸収されている、もしくはその英文を読む中で読者のなかで育っていくというものであったように思う。この辺りは、遡れば獨案内や英文典にその原形を求められるのだろう。
翻って、今風の教科書の作り方はどうだろう?
日本人学習者の目線でシラバスが組まれているだろうか?
検定教科書といえば、海外での流行の学習ストラテジーとやらを取り入れた一見華やかなタスクが散りばめられているもので、市販の大学入試向けの教材といえば、入試過去問を精選した解説の詳しい問題集しか市場には残っていないのではないか?
このブログでも予てから言及している『新クラウン英文解釈』(三省堂)は名文選の体裁を残しながら、直読直解の頭の働きをたどることで読みの下位技能と折り合いをつける好著だったと思う。開拓社からかつて出ていた英語IIBのSwanはReading skillsを正面から捉え直して第1部に配した潔い検定教科書だったと思う。
最新の検定教科書はどの程度進化しただろうか?英文和訳を排除したまではよい。そこから先の道筋を本当に学習者目線で辿れているだろうか?パラグラフ・リーディングとは名ばかりの、段落の冒頭の文をつなぎ合わせた粗雑な読みを助長していないだろうか?冒頭の一文を読むことが重要だと百歩譲って、その冒頭の一文を読む読み方はbottom-upではないのか?キーワードを探すスキャニングをするとして、キーワードが言い換えられたことを認識するword recognitionそのものはbottom-up処理ではないのか?そのような、リーディングスキルの養成には不可欠なはずのbottom-up 処理の自動化はいつなされているだろうか?そのための語彙・構文の処理の手当は?top-down処理のしやすい素材文でtop-downに重きを置いた読みを課し、その成否をtop-down処理が出来たか否かを問う設問のみで測定評価することに問題はないのだろうか?その設問に正解できなかった読み手は、どこをどうすれば「正しいとされる」理解にたどり着けたはずなのか?与えられた読みのタスクをうまく処理できなかった読み手は、常に後知恵をつけられるだけにはなりはしまいか?訳読に堕するのは容易い。しかしながら訳読や日本語による解説を批判するのもまた容易いのだ。
批判され淘汰され今では絶版となった上記参考書やテキストに取って代わった、今風の受験参考書はどうだろう?『かんべマニュアル』、『鬼塚本』、『薬袋本』のように、精読に求められる思考過程・情報処理過程をシンプルに提示しているものは少数派で、ギミック満載の「こうすれば読める」というストラテジー偏重や、意味が分かった段階でひたすら音読というブラックボックスがまだまだ多い。入試レベルに接近するまではそれなりの英文を拵えられる英語母語話者は多いだろう。しかしながら、もし、難易度が高い論証文・評論文や大学の講義レベルの英文を用意しようと思ったとき、そのレベルの英文をスタッフの意向に沿って書けるライターはそれほど多くない。いきおい、良質の英文をどこかから探して集めてくるということになる。Treasureを作った時は全ての素材を書き下ろしにするため、英語母語話者のライターには優秀なプロの物書きを著者代表が連れてきたのだが、それでもなお、教科書として「ことば」を学ぶ側面のある教材では、彼らの書いた「英語の文章」も多くの人の目で検討され修正されなければならず、作成にはかなりの時間・労力・ストレスが必要だった。
いっそのこと、現代の高校生が卒業までに読んでおくべき英文のアンソロジーを作ってはどうなのだろうか?筑摩の『高ため三部作』の英語教科書版である。
- 第1巻 文章読本
- 第2巻 小説入門
- 第3巻 評論入門
3年間で、その中から各学校・教師が、自校のシラバスに合致した作品・文章を選んで読んでいけばいいことにするのである。1年生はひたすら文章読本でバラエティーに接するとか、高2は評論を学んで「パラグラフ」の概念や論理的思考を学び、アウトプットに生かせるようにするとか、高3ではスキーマに頼る事が難しい小説を読み進めることで、読解の底力を養うなど、最終的な出口をそれぞれの学校が設定したら、その出口の出方もそれぞれで異なっていていいだろう。昔で言えば、「『ナショナル』のどこそこまで」と言っていたのと同じ考え方である。"Can-do" (による到達度指標)の流れが日本でも広まり、世界水準へと近づいていこうという時に水を差すように聞こえるかもしれないが、"Can-do"などという概念のなかった大昔の教材は、その教材のどこまで出来れば、どのくらいの英語力という物差しとして機能していたように思うのだ。
だから、この『英文版・高ため三部作』を作る際には、「私立大学編」「国立大学編」などの分類は廃し、「マークシート式」「記述式」などといった分け方をしなくてすむよう、実際の出題を模した設問はつけないことだ。
何分何秒で読めたか?というチェックも不要。そもそも現代文の教科書にそんな欄はないだろう。
- ちゃんと読めましたか?
という(ことが確認できる)設問のみを施せばよいのだ。そして、それで満足できるくらい良質な英文を読ませればいいのだ。読んでみて、良いもの読ませてもらった、とか、ああ、力がついたな、などと思えるような教科書があればいいではないか。
その様な教科書を作るには、それぞれの英文を読むための下位技能、語彙のレベル、構文のレベルなどを事細かく比較検討し、英文そのものを吟味し尽くして、どういう観点である英文の難易度はある英文よりも上だったり下だったりするのか、を決定することを余儀なくされる。目利きが要求されるのだ。目利きが集まれば、そのアンソロジーを形にしていく、文章の順序・配列を決定する過程で「タスク」は明らかにされ、"can-do"は整備されているだろう。索引も充実するはずだ。
私は以前にも、提案しました。
今日もまた同じ提案を。
奇特な出版社の方がいたら『英文版・高ため三部作』一緒にやりませんか?奇特な英語教師の方、編集者で興味をお持ちの方、一緒にやりませんか?
まずは、ネタとなる良質の英文素材を集めることから。そうそう、我こそは、という英文ライターの方もご連絡下さい。
今日のエントリーで書いたことも含めて、「『高校の』読みの授業」に関して持田先生の最近のブログでは丁寧な考察がなされていたので、未読の方は(探して!)読んでみて欲しい。(リンクは張りません)
本日のBGM: 記憶全集(HARCO)
※追記 (2010/02/08)
教科書はどこへいった(その2)は→ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080126
教科書はどこへいった は→ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20051218
過去ログがありますので参照されたし。