『泣くな、英作文教師』

土曜日は課外講座。
広島での「メソ研」の講師陣と内容も気にはなっていたのだが、参加は断念。

今週の課外は進学クラス高1。
「リスニングテスト制覇の旅」の途中。
静岡県の英文で豊かな学びを経て、三重県から大阪府へ。
原則としてモノローグだけ扱っているのは同じです。都道府県によって英文の質にバラツキがあるのは仕方のないことですが、大阪の出題での「英文」には多々問題があるように思いました。一つ一つあげていくと、ちょっと書ききれないくらいあるので、私が書き直した「修正版」の英文スクリプトで「ライブリスニング」を行う「学年末テスト」が終了する3月中旬位に、再度、問いたいと思います。その頃には、九州地方まで足を踏み入れているでしょうか?

さて、
自分の「呟き」のまとめなどなど。
国公立大の個別試験も目前。
英語の「ライティング」で「意見文」「論証文」が課される大学の志望者は、英文の繋がりと纏まりを、こちらの記事 (https://www.benesse-gtec.com/fs/console_bin/wp-content/uploads/2015/03/es_tushin_vol60.pdf) で確認し、

  • 主観的形容の論証責任

と、

  • 指示語・一般名詞での受け継ぎ

をチェックしてみて下さい。これまでの指導経験上、これだけでも、主題への収束が強まり、文と文の繋がりがよくなることが多いです。
「物語文」、「説明文・定義文・描写文」、「意見文・論証文」など、ライティングにおけるテクストタイプ、というものを理解するには、遠回りのようでも、こちらの過去ログにお付き合い頂くのが一番かと思います。( the secret of annotation - 英語教育の明日はどっちだ! tmrowing at second best)
出題形式だけに目を奪われていると、完成する英文の「質」が疎かになりがちです。
とりわけ、大学入試レベルといえども「ナラティブ」「物語文」は意外に難儀します。
小学生の絵日記のような断片情報の羅列にしないための視点を「高校入試のリスニングテストのモノローグの書き換え」に学んで下さい。過去ログではこちら以外にも幾つかあるのでよろしく。
(小市民 - 英語教育の明日はどっちだ! tmrowing at second best)

出題校が解答を公表していない場合には、対応は「それなり」にしかできないものですが、「文法のミスがなければ減点されないのだから、中学生レベルの英語で」というアプローチの危うさは、弁えておいて欲しいと思います。過去ログの金沢大の例などで確認して下さい。
(有志無私 - 英語教育の明日はどっちだ! tmrowing at second best)

この点は、受験産業といわれる予備校でも、指導はまちまちのようです。私が好もしく思うのは、次のような指導方針です。

しかしこのただし書きが新たな誤解を生み出したと思う。「内容ではなく作文能力」と言っているのであって、幼稚な表現でも内容がスカスカでも、あからさまな間違いがなければ満点とはどこにも書いていないのである。それで満点にするなら、入試科目に英作文を入れる必要はないと考える。問われているのは「作文能力」と言っているのであって、そこにはもちろん表現の豊かさ、用いる構文のレベル、語彙の量、英語の発想になじむ言いまわし、全体の構成、すべてが問題になっているはずであり、あえて踏み込むなら内容を全く切り離した英文というものがありえない以上、内容の良し悪しも当然重要な要素となってくると著者などは理解した。上記のただし書きは内容がいかに良くても英語の試験である以上、英語そのものが拙劣では話しにならない、という警告であると思う。あくまでも出題意図に沿い、指示を守りながら、英文として指弾されるほどのことのない正確な文法・語法・スペリングという制約の中で、精いっぱいクオリティーの高い作文を書き上げろということであろう。 (p.235)

長い引用になりましたが、これは、

  • 山口紹 『東大英作の徹底研究』 (駿台文庫、2013年)

での「出来事の描写」の項で記されている「考え方」。少し話題になった、東大入試で期間限定で使われた

  • 内容よりも作文能力を問う問題であることに注意せよ。

という「ただし書き」に言及して、山口氏が持論を展開している部分です。共感します。
この新刊は、問題集というよりは、「英作文」「英文ライティング」というものを山口氏がどう捉えているのか、を著した『教科書』『ハンドブック』といった印象を持ちました。
私は1998年の研究社から出ていた問題集を読んでいて、もっと若い講師の方なのかな、と思っていました。大変失礼しました。
本書を貫く、「ナラティブと時制」へのこだわりは、私以上かも知れません。文法・語法を重点的に扱う「書くための英文法 実践講義」の頁で、

  • 8. it, this, that の使い分け (pp. 190-195)

があることは強調してもしすぎということはありません。
できれば、簡単で良いので、索引が欲しかったなという気がしますが、この本を消化吸収できるレベルの人なら、自分で付箋を貼ったりして相互参照の頁は書き込めるでしょう。
内容に関しては細かく引きませんので、是非、店頭で実際に頁をめくって皆さんそれぞれで良し悪しを判断して下さい。
山口氏は「お題」の設定そのものにも、ご自身の見解を述べているところが多々見られるのですが、2010年の出題に関しては「対比」という着眼点以外、何も触れていませんでした。

現在、全世界で約3,000から8,000の言語が話されていると言われている。もしそうではなく、全世界の人々がみな同じ一つの言語を使用しているとしたら、我々の社会や生活はどのようになっていたと思うか。

という「お題」に続いて、書き出しの英文が与えられている問題でした。

  • If there were only one language in the world,

私はこの「お題」を初めて読んだ時に、「難問だ」と頭を抱えたものです。というのは、「仮定法」の習熟が問われるから、ではなく、「仮定における思考の過程」が問われる、と思ったから。

  • 全世界の人々がみな同じ一つの言語を使用しているとしたら

という、このお題に忠実に考えれば、視点は「現在」に置いての仮定。つまり「現在世界中の人々が用いている言語が、たった一つに限られるとしたら」という「現実離れ」となります。
その条件設定で、何が問われているのかと言えば、

  • 我々の社会や生活はどのようになっていたと思うか

なのです。
「人類は他の類人猿とも異なり、進化の歴史の途上で言語を手にしたわけであるが、もしその言語が一つ『だった』としたら、今の社会生活はどのようなものになって『いる』と思うか」という条件設定ではなく、「(現実はそうじゃないけれど) そのように一つの言語のみで意思疎通が全て賄える社会や生活はどのようなものであったはずだろうか?」と、「過去へと遡る」思考の働かせ方だと思ってしまったのです。
その後、気を取り直して、いくら東大とはいえ、そんな難問は出さないはず、と問題を読み直して、「ここでの、『なっていた』は現在へと移行する時の流れに沿った『変化』を表しているのだろう」という理解に基づき、解答に当たっていましたが、やはりずっと気にはなっているのでした。
細かく読んでの感想などは、追って書くかも知れません。
今回、珍しく予備校講師の教材を真っ当に取り上げました。進学対策という観点で見れば、「進学校」と称される高校の英語の先生は「センター試験」の後、英作文の添削などさぞ忙しかったことでしょう。現役生は最後の伸びがスゴイ、と毎年思うかもしれません。
でも、もし、直前ではなく、4月から「ライティング」を教えていたら、読解も文法も、もっと伸びていたかも?とは思いませんか?
大学入試の「英語」に関してのみいえば、各大学が、解答を公表するだけで、問題点のかなりの部分は「改善」されるように思います。現在、最も明らかでないのが、英作文、ライティングの解答となる「英語」の実態でしょう。
新年度の入学生からは高等学校で、「ライティング」に特化した科目は消滅しますが、「書くこと」の指導が本当の意味で高校の教室に根付くこと、そして、教室内外で「お題」と格闘する生徒と、その英文を添削・評価する教師に幸多かれと願って止みません。

ただ、その幸せを実感するためには、高校段階のどこかで、きちんと「精読」を位置づける必要がある、というのが持論です。
現場教師が心得ておくべきことの「最大公約数」としては、

  • インプットの増量
  • 言語材料の精緻化
  • (自分よりも英語が) 出来る人とのやり取り

をどう実現するか、となるでしょうか。この3つは、SLA研究の知見からも頷けると思います。
ただ、今後「インプット」の量をどのように増やすかを講じる前に、今現在その「インプット」をどう処理させているかを再考することが大切になってきます。見直すのですから、それはそうでしょう。
ところが、いざ、やろうとすると、それは、言うほど簡単ではないのです。
新課程の「コミュニケーション英語」という科目は、「技能統合」が目玉の一つです。そして、「英語は英語で」を牽引する大役を担わされている科目でもあります。教科書で、指示も含めて全てが英語で書かれているものもあります。そうであっても、メインの言語材料は「読解」の素材がデフォルトで用意されていて、「読んだ上で」何かをすることで「技能統合」と謳っているようです。確かに、「読めて」いれば、事前・事後で「話そうが」「書こうが」何をやってもいいのです。
でも、

  • 新課程にも対応できます。

とばかりに、「英語は英語で」の授業をするに当たり、本文の「和訳」を配布して、「インプット増量」を図っているような場合には注意が必要です。「和訳」を読むことによって、生徒が英文の内容理解を深めることを求めているのに、「訳読からの脱却」と胸を張る教師はいないだろうと信じたいものです。それはむしろ「和訳に依存」して、「指導を肩代わり」してもらっているに過ぎないのですから。最近、妙に流行の「サイトラ」や、「クイックレスポンス」も、「日本語」に依存している点では大同小異です。「理解」や「表現」で日本語を援用するのは構わないが、「読解の際に訳読をしてはいけない」などと本気で考えているとは思えません。繰り返しになりますが、是非過去ログの再読を。

私は高2,高3の授業では、一貫して、「意味を読んだ後に言葉を読め」と説いていますし、「ライティング」という科目がなくなり、忘れられても、説き続けるだろうと思います。そうでなければ、自分で書けるようにならないからです。

本日のBGM: Song from the bottom of a well (Kevin Ayers)