「寝ている時くらい眠っておけよ」

昨日は成績評価の入力をしに学校へ。その後水道橋へFTC。
菅正隆氏の講演。初生菅氏だったので興味深く聞かせてもらった。今回の菅氏を招聘した仕掛け人の一人でもある元同僚のW先生とも久々の再会。『英語青年』買いましたよ!という若い先生もいて宣伝した甲斐があったというもの。開成高校では英語科で定期購読しているそうです。懇親会まで参加し帰宅は深夜。
今日は、ELEC同友会の「教科書著者によるワークショップ」向けに各社教科書の下調べ。
今回は「教材研究」ということで、普段教科書を扱っていて私が気をつけていること、気になることを中心に据え、それに加えて各種研究授業を見ていて、本文の読みにあまりにもこだわりのない最近の動向に対して警鐘を鳴らすことが主眼。最終的には「安易な自己表現」でお茶を濁した授業の追放まで迫りたい。聞く時にきちんと聞かせているか、読む時にきちんと読ませているか、という当たり前のことを当たり前にやることの大切さを再認識してもらいたい。
たとえば、「リーディング」という科目の教科書はReading SkillsとかReading Strategiesを前面に出した構成・内容になっていることが多い。ところが、「パラグラフの構成」については要所要所で説かれているものの、文章そのものの分類は、物語文、描写文、説明文、論説文という名称に触れるだけで、どのような目的とスタイルがあるのかがほとんど説明されていない。さらには、スキャニングだのスキミングだのといったskillsとの兼ね合いで、教材のほとんどが説明文であり、論説文の良いモデルを目にすることが非常に少ない。それでいて、Post Reading Activityで英語を話させたり、書かせたりするのである。これは英語 I、英語 II でも同様である。インプットとして与えられる英文の語彙とトピックが合っていれば生徒はすぐにでもアウトプットができるとでも思っているかのようである。
生徒に要求する英語のプロダクションはせいぜい50語から100語であろう。であれば、その分量でどのように豊かな内容をそのレッスンで扱った言語材料を活用して表現できるかを示すべきである。その際にtext typeへの配慮を忘れている教科書が余りにも多い。
CROWN Reading(三省堂)を例にとってみる。この教科書では、唯一 Lesson10のヒトクローンの話題のOPTIONで80語程度の主張が3パターンあり、アウトプットのモデルとしての機能を果たしている。ただし、あくまでもオプションであるからやる必要はない。この第10課の英文の最終段落を抜粋する。
While recognizing these possible problems and dangers associated with nanotechnology, we should not let our fears of new technologies deprive us of their potential benefits which we might enjoy by exploring the unknown. After all, as Feynman pointed out, there's plenty of room at the bottom. (p.136)

教科書の説明文にありがちな、明確な主張をせず、バランスをとって終わる文章である。最終段落に来てなお may/ might; some/ many/ plenty of などといった具体性に欠ける、断定を避けた文章をもとに、どんなskillを養成しようというのか疑問であるが、この手の文章をいくら読んだところで、「自分の意見を述べる」ことには寄与しない。3人なら3人の意見を50−100語でそれぞれ示し、その意見の根拠としての客観的事実をまとまった文章として読み、検証する。その後、冒頭の3人の主張のどれに自分の意見が近いかを考えさせ、フォーマットをそのまま活かして自分の意見を書かせる。同じ意見なら、コピーさせる(実際に手を使って書き写させる)というような手順を踏んで初めて「自己表現」が完結するのである。

次の質問について自分の考えを英語でまとめグループで話し合いなさい。

  • What are some of the causes of global warming? What can we do individually to help solve this problem? What can we do as a country, or as a global community? (Lesson 3, p.38)

などといった活動をPost Reading Activityと称して課す前に、While Reading でいったい何をやっているのかをきちんと突き詰めたらどうだろうか?Top-downといえば聞こえは良いが、topの表面を滑っているだけで全くbottom、深部へと深まっていかない、肝心な部分に届かない読みで終わっていないかを自問するべきなのだ。Reading Comprehensionはtop-down的アプローチでも構わないが、writingは最終的には一文一文をつなげてまとめなければならない以上top-downというわけにはいかないのである。
真の意味で topとbottomをつなぐ読み、それこそ教材研究で求められる読みであろう。その鍵は「英作文的読書」にある。もし「英作文的読書」をするのであれば、その読みは必然的に主題を踏まえて細部の表現を吟味するtop-downの読みになるはずであるし、その時に頼りになるメタ言語はL1ではないのだろうか?和訳を廃して、今風の読みをしたつもりになっていて、その実何が残ったのか?
読んでいる時くらいは読みに集中した方がいい。