”I have my books and my poetry to protect me.”

土曜日は進学クラスの課外講座。高1、高2とそれぞれ90分の授業。
高1は、Severn Suzukiのスピーチの内容理解まで終了。音読と日→英での復元まで。
高2は、Rachelに別れを告げ、「リーディング」の教科書から一つの課を選んで読解。
教科書会社の提供する「スラッシュ訳」の余りの使え無さ加減 (「NASA スペースシャトル級」) に、業を煮やし、自分で「フレーズ順送り訳」を拵えて、両面印刷で比較対照できるようにして配布。
スラッシュ訳では例示での並列や後置修飾での処理が覚束ない。また、副詞節が文頭にくるような文では、従属節内の構造がちょっと複雑になっただけで、繋がりが不明となりがち。
たとえば、

  • We read newspapers, popular magazines, fiction, and other materials.

という英文が、教科書会社提供のスラッシュ訳では、

  • 私たちは新聞を読む/大衆雑誌や/フィクション/およびその他の(読みの)材料を

となっている。これは、英文をスラッシュで切って、その「切り身」を繋いでいくように読めば全体がわかるというナイーブな発想で作られているように感じる。本来、左から右に読み始めた時に、read (=読む) の目的語が列挙されていることに読み進めていくからこそ、気がつき、意味を作り直している訳である。
次の文のように、動詞句が多少長くても、目的語が一つに絞れるのであれば、「動詞」の引力は持続するだろうから、この程度の「スラッシュ訳」でも役に立つだろう。

  • We come into contact with many kinds of reading materials in our everyday lives.
  • 私たちは接する/多くの種類の読み物と/毎日の生活で

英語ではごく普通の「並列」の構造も、不慣れな学習者にとっては、「スラッシュ訳」が役に立ちにくい。

  • Why is it so easy and natural for us to read a text written in our native language, but so frustrating and difficult to read something written in English?

文頭から丁寧に意味をとっていき、繋がりと纏まりを考えればそれほど難しくはない文である。しかし、これが「スラッシュ訳」だと、

  • 私たちにとって,とても簡単で自然であるのはなぜなのか/文章を読むのは/母語で書かれた/けれども,とてもいらだたしく難しいのはなぜなのか/ものを読むのは/英語で書かれた

となってしまう。
引力の途切れに気がついただろうか?スラッシュ訳にもかかわらず、「…のはなぜなのか」が繰り返されているのである。では、この日本語を頼りに英語を読む学習者は、「なぜここでは、『なぜなのか』が繰り返されているのか?」をどのように悟るのだろうか?
逐語訳や直訳などの「訳読」を忌避する風潮が強まっているように感じて久しいが、このような「切り身」を与えて、あとは頭の中でやってくれ、といわんばかりの出鱈目を「読解指導」とは呼びたくないし、呼ばせたくはない。

文頭の従属接続詞も日本語と英語の処理には違いがあり、慣れるまでは手間取るもの。動詞-目的語と同様の「引力」の途切れは容易に予想される。

  • When we read an English text with familiar expressions and grammatical structures, that text is easier for us to understand.
  • 英語の文章を読むとき/よく知っている表現で書かれた/それに文法構造で/その文章はよりたやすい/私たちにとって理解するのは

接続詞のまとめる範囲は、カンマまで見た時には当然わかるだろうが、ただ、フレーズを短く切り刻めば良いというものではなく、

  • we read an English text
  • a text with familiar expressions
  • a text with familiar grammatical structures

というチャンクの切り出し方を変えて繋ぎ直せる「文法力」があることが前提となって、「切り身」から全体の意味を構築できるわけである。
教科書会社が提供している「資料」がこのような現状である、ということは、このような指導が望ましいと「世間一般」では思われているということだろうか?
丁寧に、左→右と読み進めていく中で「悩みどころでは悩み、迷い所では迷う」経験を得る機会は、今では高校の英語教室にもなくなってきているのかも知れないと思うと憂鬱である。

明けて日曜は、朝から「免許更新」。
といっても、教員免許ではなく、「運転免許」の方。教員免許の更新は、このまま制度が続いたり (強化されたり?) したら、あと6、7年くらいで更新時期がやって来る。先日も、既に更新を終えた同僚と話しをしていたのだが、私にもその時期が来て、免許を更新したとしても、その後定年退職まで何年教員を続けるのか、と考えると、更新はしないで教壇を降りるのではないかな、という気はしている。
運転免許の方は無事に更新を終え、交通センターからの帰り道で、ガソリンを入れ、書店に寄る。

「中締め講義」で、あらためて「意味」というものを考えていたので、

  • 中原道喜 『誤訳の常識』 (聖文新社、2012年)
  • 宮脇孝雄 『英和翻訳基本辞典』 (研究社、2013年)
  • 今井邦彦、西山佑司 『ことばの意味とはなんだろう 意味論と語用論の役割』 (岩波書店、2012年)

を購入。こんなことなら、西山先生と懇親会でもっと話しをしておくんだった。
他に買ったのは、

  • 保坂和志 『言葉の外へ』 (河出文庫、2012年)
  • 保坂和志 『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』 (筑摩書房、2012年)

帰宅してから、既にこの2冊を読んだのだが、前者の文庫版に際しての「まえがき」が頗る良かった。それだけでも満足。それと比べると、本当につまらなかったのが、『英語教育』 (大修館書店、2013年2月号) の特集、

  • 「プラスαの語彙指導」

何故特集を全体としてつまらないと感じてしまうのか?それは「プラスα」が何を意味しているのかがわからない論考がほとんどだからだ。
ここにあげられているのは「私の語彙指導」とか「あり得べきものとしての語彙指導」であって、「定見」「定番」とされている語彙指導の現実に対して何かを付け加えたものとは言い難い。
例えば「プラスαの語彙」として、中学校の検定教科書に現れた語彙を各社横断的に、更に学年進行での「擬似的発達段階」を辿って見た時に、旧課程と比して「何がプラスされた」と見なすことができ、その「プラスされた分」をどのように指導するか?というような切り口はあってもいいだろう。しかしながら、今回の特集のほとんどが、例によって、各人各様の「指導実践例」「指導論」「先行研究の概括レポート」である。
たとえば、

  • 坂本彰男 「多読で未知語を推測する力をつける」 (pp. 27-29)

の冒頭部分、「筆者の勤務校では約8,000冊の洋書を用い、以下の多読3原則に則って多読を行っています。」を読んで、読者たる英語教師は、「自分の勤務校の何に何をプラスすればいいのか?」と疑問を持つだけではないのか。
その観点では、

  • 田畑光義 「ライティングで使える語彙を増やす」 (pp. 16-18)

での、「今年度から教科書が全面改訂され、4技能の統合を図った活動が多く取り上げられている。」という、これまでとの変化と現状認識を踏まえた、実践例報告・あらたな実践への呼びかけがあったことが救いである。

  • 北原延晃 「自立する学習者を育てる、辞書を使った語彙指導」 (pp. 37-39)

では、中学校の現場に根ざした「辞書指導」が具体的に記されている。いいことが書いてあるとは思うのだが、掉尾がいただけない。「辞書指導をはじめとした生徒の自学が進むと英語の学力が飛躍的に向上する。本校では3年生の3人に1人が英検準2級以上を取得している。」(p.39) というのだが、では、残りの3分の2の生徒はどうなのか?「自立できず」「飛躍的な英語学力の向上がなかった」学習者は、「どのような語彙」を「どのように」身につけて中学校を終えるのだろうか?この最後の頁には、生徒の感想が引かれているのだが、ここには感想が載らなかったであろう「英語学力」層と思しき生徒と教室で日々悪戦苦闘している一高校教師の偽らざる感想である。
この記事も最後の「英検」の話しを持ち出さなければ良いことが書かれているな、という評価だったと思う。この先生の指導実践により、学習者たる生徒たちは、たとえ英検の上位級に合格していなくとも、きっと、各々が「それなりに豊かな語彙」を身につけていたはずなのである。だからこそ「語彙指導」の豊かさとか、深さとか、確からしさとかを、外部試験などの物差しを外して語れる「英語授業の文化」を育む必要性を強く感じている。
「プラスα」に話しを戻そう。
この2月号の「投稿」で、

  • 若林茂則 「だからリスニングは難しい---原因と対策」 (pp.64-66)

に、興味深い指摘があった。英語のリスニングの「難しさ」の要因・側面を7つ取り上げたうちの、「6. 速さ」に関して、

「新聞」と「新聞紙」の発音の長さを考えよう。「新聞」に「紙」が加わった「新聞紙」は、「シ」の分、すなわち1モーラ分、発音の時間が長くなる。「新聞」の部分の発音時間は変わらない。「新聞紙」に組み込まれたからと言って、「新聞」の発音の長さが短くなるわけではない。
英語は違う。単語に接尾辞を加えたり、短い文に入れたりすると、その単語は短く発音される。

とある。ここで、比較音声学を学び直そうというのではない。「語彙指導」を合わせ鏡にした、たとえ話である。
上述の「日本語」という部分を、「日本の英語教室」とか「日本の英語教育」と置き換えて見た時に、「新聞」はこれまでやってきた指導法、「新聞紙」における「紙」が「プラスα」なのだから、発音時間と同様、その増えた分、余計に指導時間がかかるはずなのに、そのことを考慮した考察が、今回の特集にはほとんどないのである。「英語は違う」とただ言われても、「新聞」の発音時間を短くするような「秘策」はあるのだろうか?中学校の時間数が増えた分で相殺できるのか?と思う訳である。

今月号を読んでいて、「買って良かったな」と実感できたのは、「クエスチョンボックス」。

  • 「139. This is my first time to visit Kyoto. は誤りか」 (pp. 79-81)

回答者は真野泰。「この回答者は、自分のことばとして英語を生きているなあ」という印象を持った。そして「ことばに対する敬虔さ」と「ことばを使う『ひと』に対する信頼」の両方を忘れずに、ことばを突き詰めていく姿勢がこの (QBの回答としては長めではあるが) 3頁足らずの回答で伝わってきた。私も、そうありたいと強く思う。

本日のBGM: I am a rock (alternate version) / Paul Simon from “The Paul Simon Song Book”