Love of labour

本業は少し芽が出てきた感じ。
ようやく「加速を継ぎ足す」段階に手がかかりました。週末には、ナイロンの太い荷造りロープで即席のブレーキを作り高負荷UTをやって課題を浮き彫りにしておき、今日は6kmTTの後で、9kmの高強度UT。最後の最後でギアが入りました。エントリーは力ではなく、艇速にマッチしたタイミングとスピードということが理解できたかと。今日は一段階上の艇速を体感したことでしょう。あと3ヵ月、ひたむきにパワーと艇速の向上を!

帰宅途中で、書店に寄って、『上方芸能』 (178号/2010-12) を購入。特集は、

  • 笑いを切る---今みんなが気にしていること

「専門家はこう考える」という論考は一人1ページ分。作家の藤本義一氏が笑いの専門家なのか、私には判断しかねるが、横山やすしを回想して書いている文章の中に、こんな一節があった。

漫才という笑芸には、一種の規律があるというのがやすし師の持論だった。それは、
笑ワレル要素が50パーセント。
笑ワセル要素が50パーセント。
というわけである。笑ワレルと笑ワセルが均衡を外すと、客席は笑っても、二人の芸は決して長つづきはしないというものだった。 (p.18)

その他、「読者が寄せる〜客席からの提案」として、35人の「お客様」のお便りが紹介されている。

もう一冊購入したのは、英語の教材。
自分のためというよりは、学級文庫用の本を探していたのだが、大学生や一般社会人向けの良い教材が見つかったので紹介。

  • 入江泉 『スパイラル英語トレーニング』 (ジャパンタイムズ、2010年)

以前、高校入試向けの教材、『すっきりわかる中学英語長文』 (旺文社) を取り上げたことがある (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20090820)。その時から注目していた著者の新刊である。

  • Level 1 は英検3級程度の文法事項と文構造を用い、TOEIC 400点台の語彙・表現で書かれている。
  • Level 2 は英検2級程度の文法事項と文構造で、TOEIC 600点台の語彙・表現。

そして、

  • Level 3は英検準1級程度の文法事項と文構造で、TOEIC 800点台の語彙・表現。

というように、「同じ教材で、文章全体がレベル毎に長くなり、文構造が複雑になり、語彙が難しくなり、場面設定や文書形式が複雑になる」という構成で、全18ユニット。ライティング修業で私がよく言っている「易から難への書き換え」の練習にも持ってこいの内容である。ただ、語彙や場面設定は社会人向けで作られているので、高校上級や進学校の生徒でも、内容面ではちょっと手強いと思われる。CDの吹き込みはELECのナレーター。英音・米音への対応を図ったと思しき4人の英語ネイティブが担当しています。Level 1 はコテコテの教材英語のスピードですが、SEも入っており、Levelが上がるに連れてスピードが上がり、少し自然さが出てきます。一部、発話の割り込みの演出など、工夫が見られ、一定のクオリティを満たしているのではないかと思います。是非、書店で実際に一度手にとって確かめてみて欲しい一冊です。

さて、
国会での「与党野党の攻防」という名の茶番劇を見ていて、こんな人たちを選んでしまった選挙民としての自分の愚かさを少し呪った。御上が何とかしてくれるという時代はとうに終わっているのだという認識が肝要なのだろう。
私も以前住んでいた「さいたま市」が市長の肝いりで、

  • 土曜日を活用した「どちゃれ」を推進

というニュースを聞いて頭がくらくらした。
少し前に、東京都の杉並区にある某公立中学校が、「どてら」なるものを始めたのを覚えている人も多いことだろう。ネーミングのセンスの悪さは主観が色濃く反映するところなのでここでは論じないが、教育施策や制度としては多くの点で問題を孕んでいると思うので、ここに備忘録として書いておく。こういう問題をことごとく抱えて日々の生活を営んでいる東京都民と教員、さいたま市の市民と教員には頭が下がる思いである。

  • 主に基礎学力の向上を狙う。清水勇人市長の発案で、2月から始まった。現在は30校が毎月1〜2回実施している。希望する児童・生徒は午前中の3時間、教科書や問題集などで自習。分からないところがあると、地域住民や退職教員らが務める「学習アドバイザー」に教えてもらう。平均出席率は7〜8%と高くはないが、参加者には「納得するまで教えてもらえる」とおおむね好評だ。/ 来年度以降、新学習指導要領の完全実施で、小中学校の学習量が増えることに伴い、土曜日を活用する動きが各地で見られる。東京都では1月、学校が土曜日に授業を行うことを促す指針を定めた。これに対し、「どちゃれ」はボランティアが主体となって運営。教員は教材の作成など、側面から協力している。市教委は「学校と地域の連携が深まってきた」とする。(読売新聞、11月18日)

それぞれの教育庁に対する批判をただ記録するだけでは意味がないので、どうして世論は突き抜けていかないのか、なぜいつも議論は平行線に終わるのか、突破口がもしあるとすればそこに繋がるように考えて行きたい。
まず、

  • 「現状で、公立学校において土曜日は休日である。」という根本を何故誰も問わないのか?なぜ制度そのものを変えないのか?

そして、

  • それほどまでに学力保証が大切だと思うのであれば、なぜ、公立学校の専任の教員を増やして対応するための予算を割かないのか?

もう何年もいわゆる日刊紙をひとつも購読していないため、記事がどこまで正確にプレスリリースを反映しているのか一次資料にあたっていないので、間違っていたら知らせて欲しいのだが、東京の「土曜日に授業を促す指針を定める」という日本語で何を言っているか分かっているのだろうか?教育庁から促されたので、「ハイそうですね」といって休日に働く教員がいると思っているのだろうか?働かざるを得ないような空気を作っておいて、あとは教員が自主的・積極的に働いたことにしようというのだろうか?
今回のさいたま市に限らず、「土曜日の活用」というのは、

  • 公立学校での基礎学力が低下している→もっと学習の底上げが必要→塾などソトに行って学ぶのでは、経済格差を埋め合わせられない→公立学校内で「プラスα」の取り組みをする

というように「世間」のニーズを反映してのことなのかもしれない。
しかしながら、「プラスα」の取り組みをするのだとすれば、プラス分を「ボランティア」でまかなうのではなく、もっと専任の教員を増やして、学力保証のためにきめ細かな対応をすればいいではないか。今、事務処理や生徒指導、保護者との対応、児童・生徒の心のケアを担当すること等々、授業の担い手である教員が授業以外にもやっていることを「肩代わり」をしてもらう人材を雇用するという解決策だってあるだろう。ボランティアや退職教員、免許だけ持っていて教壇に立っていない人をそれこそ「活用」する余地ありありである。「教員の授業以外の負担を軽減するための人材活用」って誰も言い出さないけれどね。
授業に外付けで学力を保証する、という時にも、公立学校で土曜日に補習ではなく、「授業」を入れてしまえば、週当たりの労働時間が超過してしまう、というのが大きなネックになるのかもしれない。 (私自身、公立校に専任として勤務していた時代、実際に週70時間を超える「労働」をしていたこともあるので、そんな「労働時間の基準」は建前にすぎないことは百も承知である。)
であれば、月曜日から土曜日までのうち、1日教職員の休業日を設定し、土曜日の授業を教員が担当しても、その教員の週当たりの労働時間が超過しないような制度保証をすればいいのだ。
先日、職場にある県内の小中高大の教職員の名簿を眺めて、各学校の専任比率を考えてみた。県内はもちろん、全国の多くの公立、私立学校では、専任以外の非常勤・臨時任用の教員が授業を担当し、職場を支えている。私は、自分の都合と意志から40歳で非常勤となり、3年間務めたことがあるが、その前の私立校勤務の時と比べれば、収入は1/3〜1/4程度になった。これはなかなかに大変ですよ。
専任と同じように、一つひとつの授業に責任を持つ「プロ意識」の強い専任外の教師が日本の教育現場を支えている。にもかかわらず、なかなかその経験や見識に見合った雇用機会・雇用形態・雇用条件が保証されていないのが現実。
今回の「どちゃれ」では、地域住民や退職教員の積極的登用が前提となっている。この人材のリソースの振り分け方が紋切り型なのである。公立学校の教員は公務員であるから、生徒に関して知り得た情報を他に漏らしてはならないという「守秘義務」があり、地域住民などを学校の敷地内という意味ではなく、「教育の『内側』」に入れることには更なる問題があるのかも知れない。では、土曜日で、外付けであれば上手くいくのか?置かれている家庭状況が様々な児童・生徒を「ボランティア」で関わる人材が、現職の教師以上に適切に面倒を見られるとはとても思えないのである。前政権与党の置き土産で、「教員免許更新」が制度化されたのは何だったのだろうか?「今教育現場の問題が山積みなのは、教員の資質に問題があるためである」、として現職教員でさえ、免許更新を義務づけられたのではなかったか?現職教員は、免許書き換えのために、終業後の時間や休日や期間休業を使ってせっせと講習を受け、免許の要らない、採用試験にも合格していない「人材」や、教壇を離れて時間が経っていて免許更新をしていない「人材」をどんどん学校教育に関わらせる。正気の沙汰とは思えない。
前述の東京都・杉並区は、「杉並師範塾」を設立することで、教員志望の若者を、区の独自の採用ルートを通じて確保することを謳っていた。素晴らしい理念である。この「塾」から、多くの優秀な若者が、区の教員として巣立っていったことだろうと思う。では、今、「杉並師範塾」はどうなっているか?ネット上で、ニュースを検索してもらえばすぐにわかることだ。
教育をするには「教える」人が不可欠、そしてそのためには「お金」が必要である。
そのことをもっと正面から議論することはできないのだろうか。
教育に関わるニュースで、「家庭の教育費負担」が話題になることは多いが、

  • 自分の住む自治体で、きちんとした教育を行うために必要な教員の配置に必要な人件費

を議論する市民の姿はあまり見ることはないし、それをデータとして取り上げるニュースも余り見たことがない。
なぜか?
「教育は大切。」と人は言う。ハイ、それはいいでしょう。
「その教育を担う者は責任重大。」とも。それも確かにそうですね。
「児童・生徒の今のため、未来のために尽力して欲しい。」充分にその願いは教育現場に届いていますよ。
「でも、その教員が高い給料をもらっているのに、成果が上がらないのは許せない。」というあたりから世間で教育を語る言葉、そしてその元となる思考は紋切り型になっていくのではないのか?
社会がその構造として、「教育が充分な成果をあげていると認めて、その成果に対して敬意を払うということを拒んでいる」ような気がしてならない。
私の主張は、

  • 教育現場のイメージアップ

そして、そのためには、 “Pay it forward.” である、「ご苦労様」「ありがとう」という感謝・労いの言葉を今、現在の教育現場に掛けることである。
教育について、行政的にトップダウンでどんなに新しい政策を取り入れようと、「教育現場」のイメージアップがなされなければ、絵に描いた餅である。その教育を担うべき「優秀な人材」は現場に足を踏み入れてくれないし、もし足を踏み入れたとしても、そこに「踏みとどまろう」とは思ってくれないだろう。
英語教師批判の紋切り型言説はいつもそうだったではないか?
現場の英語教員が英語を使えない、英語の実社会での運用経験が乏しい、という批判で、英語教師を貶めることには熱心だが、では、「英語を使える」「実社会での運用経験豊富」な人材が、中高の採用試験をこぞって受験するというニュースを耳にしたことはないだろう。
だからこその、イメージアップである。いきなり金銭的報酬が跳ね上がることは考えにくい。であれば、社会的認知、受け入れられ方、イメージの向上から。
英語教育に限らず、日本の教育を何とかしなければ、「やらずんばなるまい」という想いの人とは手を繋げると思っている。英語教育に限って考えたとしても、社会学とか教育行政、教育政策を専門とする大学・大学院の先生とか、現職の行政の長とかを交えて『英語教育』で対談してもらい、英語教育のサポーターになってもらう努力をするのと並行して、英語教育の世界で著名な方々から、かつての福原麟太郎氏のように、その言論・著作を世間や有識者が「傾聴する」人材を英語教育のソトの世界へと押し出すような動きを作っていく時期に来ているだろうと思う。
今日は「勤労感謝の日」ということで、自分の労働に関わる様々を振り返ってみた次第。

批判・諫言は甘受しますが、主題を掴まえた上でお願いします。主題とはかけ離れて、言葉「尻」を捉えて突っついたり舐めまわしたりするのはハラスメントで訴えますからね。

本日のBGM: Cruel to be kind (Nick Lowe)