Pride and Pretense

木曜日と金曜日で、今年度の持ちクラス全てに出ることができた。高2は早速歌のタスクを行い、歌を聴いて空所を補充するのに答え合わせをしないまま続く一連の活動をこなしてもらった。まあ、そのうちこの活動の意味がわかるでしょう。高2に1名、米国からの留学生がいた。彼は日本語の授業を受けなければいけないため、毎時間私の授業に出るわけではないので、どんな関わり方ができるのか来週以降専任のA先生(英語母語話者教員)と相談することに。高3ライティングは「主語の選択」に焦点を当てたpre-testの実施とその解説。
今でこそ、書店の語学コーナーでは雨後のタケノコのように、のこのこと次から次へと音読教材が並べられるなど、音読ブームを呈しているが、CLTが声高に叫ばれ、オーセンティックでコミュニカティブな活動でなければ実践に値しないかのような受け取られ方をしていた90年代には、英語教育の専門誌で、英語母語話者の教育関係者から「音読」は自然な言語活動ではないなどという理由で糾弾されていた。音読と同様に、芳しい評価を得られていなかった活動に「視写・筆写・copying」がある。次の記述を読ませてあげたかった。

  • 「書くこと」の指導を怠っている教師も、読むことの指導の中で、ときたま書かせることがあるのだろうと思います。そんなとき、子どもたちの筆写速度が、意外に遅いこと、遅速のバラツキのひどいことに気づくと思います。これが指導の手の加わらない、教室の実態なのです。こういう状態では、うまく授業にとりこめません。すぐに「書くこと」をやめてしまいます。しかし、この実態も順序をふんで指導すれば早くて、二か月、おそくとも三か月でみちがえるようになってきます。書く力が上昇してくると、指導の展開に、いろいろなバラエティーをもたせることができるようになります。(「第三の書く」の展開、『第三の書く 読むために書く 書くために読む』青木幹勇、国土社、p. 43)

そして、この後、非常に具体的な授業での指導手順が記される。これが母語である国語教育の土台の確かさである。
この春行われたELEC同友会のワークショップで「問いを立てるスキル」という代打の講座を持った。その際、参加者の質問に「先生の言っているのは『生徒が』問いを立てるスキルのことですよね?」というものがあった。良い視点・着眼点である。英語の授業において「発問」は授業の成立に大きな意味を持っているといってよい。内容理解を深める、確かなものにするための発問の原理原則は以前のブログでも言及した。では、次の文を読んでどう感じるだろうか?

  • 発問中心、発問依存で一時間をぶっ通すような授業にもすぐれた授業があるでしょう。わたしも、ひところ、この手の授業に没入し、これで、この授業がかなりの線にいっているなと自負をもっていたことがありました。しかし、そういう授業が、ほんとうにいい授業かどうか、たしかに参観者にはもてはやされやすい授業であるかもしれませんが、それが、子どもたち一人一人に浸透していく授業、つまりどの子も、その学習に集中できていたかどうか、何人かの応答者が、にぎやかに話し合い、学習がもり上がっているかに見える授業ではあっても、大多数の学習になっていると保証できたかどうか、それは疑わしいものでした。いや、この発問依存の授業が、理解力の充実、ことに表現力の向上にはさほど効果的でないことがわかってきたのです。洗練された効果的な発問は、授業展開に不可欠の手段だとはいえますが、この手一つが決め手ではありません。また、どんなにすぐれた発問にも限界のあることを知るべきだと思います。現在国語教室にみられる発問過信は猛省されなければなりません。(上掲書、pp. 119-120)

『第三の書く…』の冒頭に、研究授業に関わるこんな記述がある。

  • 子どもたちが、五分も十分も黙ってものを書くというような地味な授業は、参観者には飽きられます。もっと派手な、かっこうのいい、見ておもしろい授業をと考えます。いちばんてっとり早いのが発問を工夫し、子どもたちを対教師、対級友の形でエキサイトさせることです。(「研究授業に問題はないか」、p. 32)

国語教育と英語教育とはその基盤もスタート地点も異なるから安易な比較は出来ない、という人がいるかもしれない。それはそうだろう。ただ、英語教育に関して、現在国内の多くの研究指定校(「研究していこう!」でもいいんですが)やSELHiで立てている研究主題の多くは、上述の「参観者にもてはやされやすい授業」を志向してはいまいか?その研究主題を推し進めていく中で「どの子も、その学習に集中できてい」る授業が成立しているだろうか?文法訳読を却下したのは良いが、cognitiveな側面に関しては生徒一人一人が塾・予備校・通信講座・参考書・問題集など学校外での自助努力で伸張させていて、その能力に依存していながら、教室で「理想的な」授業を成立させているつもりになっていないだろうか?
そんな矜持と忸怩の間で揺れ動きながら始まった4月第一週であった。
明日は朝から本業、午後からライティング部会である。