『不幸な訳読』

ひきつづき、安井稔『仕事場の英語学』(開拓社)を読んでいる。

「比較的込み入った内容の英文が与えられた場合、それに対する我々の理解が、同じものに対する英米人の理解と大きく異ならないですみうるのは、日本語という、英語とは別の世界で、同じことを考えることができるからなのである。」(pp.280-281)
という一節は反芻が必要だ。英語授業で訳読による内容理解のみを行っている場合に、自己弁護のためのサポートとして安井氏のこの発言を引用することはたやすい。
これだけ囂しく(=喧しく(かまびすしく=「やかましく」の意;話し手の否定的・消極的な評価を示す))和訳問題が日本の英語教育の話題で取り上げられるのは、「テクスト(=教材としての英文素材)」が「読むこと」を意識して教材化されているからである。安井氏が提示する5つの用例は示唆的である。とりわけ、「絵を描けばよいといわれるかもしれない、が、それは、ヒントを視覚化したものであり、日本語の使用を視覚化したものであるといってもよい」という指摘には耳を傾けるべきだろう。オーラルイントロダクションで絵を用いることが「英語による英語の授業」での指導技術と思われているが、絵を用いて導入すれば日本語使用を排除したことになるというのがいかにナイーブな思いこみであるかを教えてくれる。(詳しくは上掲書 (pp.279-280) にあたられたし。)

  • a. red, white, sweet, sour
  • b. apple, dog, tiger
  • c. Nobody was in the room.
  • d. John is taller than any other boy in the class.
  • e. Death is the end of life.

研究会などで、英語のみによる授業を見る機会も多い、というより最近ビデオなどで見る授業はみな「英語のみによる授業」になった気がする。英語を英語で、つまり「英英派」である。この派閥が今元気が良いだけではなく、王道だといわれているので、「AAO(=英英王)」とでもしておこうか。
元気が良いのはよくわかるのだが、その中で、読解 (reading) にあたる部分で何をやっているのかが曖昧なまま、内容が理解できたことを確認するテスト(英問英答など)をして、音読やシャドウイングに取り組んだり、拙速なproductive活動へと移ったりという授業を目にすることがある。授業を見た後の合評会などで、教材研究時に当該箇所の英文を教師がどうとらえているか、どう読んでいるか、また生徒の視点で原文のどの部分が最も理解の難しい部分だと認識しているか、というような質問をするのだが、芳しい回答が得られることは少ない。まず、教師が原文を読み込んでいないからである。訳読であれ、パラフレーズであれ、サマリーであれ、原文の読みは教材研究の基本ではないのか。教師自身が「意味の理解」ができればあとは言語活動のメニューづくりに精を出すというスタンスでいるのには首肯しかねる。「訳読をしています、でも英語は読めません」というのでは困るというのはよく分かるが、「訳読は排除しました、しかし英語の読みは訳読に劣ります」、というのでは意味がないだろう。スキルというのは、有限の方法論からなる演算によって未知なる無限に対する推測を繰り返す作業とも言えるのだから。
このブログでも折に触れ、L1の利用について言及してきたのは、残念ながらL1を利用した授業が必ずしも「訳読」と十把一絡げにはできない実態があるからである。和訳がガイドにすらなり得ていない「害読」もあれば、一文一文丁寧に読んでいるようで実は何も分かっていない「粗読」もある。冒頭に示した安井氏の世代が受けた「訳読」とは質的にも量的にも大きく劣っているのが現状ではないだろうか?
私自身、20代の頃は授業やテストから英文和訳を一切排除した時期もあった。英語のみによる授業を行った時期もある。ただ、英語のテクストにデフォルトで「読み」が設定されている以上、現在の私のスタンスは、「読むこと」の活動においては、和訳は要求しないが、日本語の使用には価値を見いだすというものである。
英語のみで行う英語の授業が、日本語で説明・解説する英語の授業よりも英語力の伸張に大きく貢献したというリサーチを文科省が責任を持ってサポートすれば一番よいのだが、彼らに任せるだけは埒があかないので、10年前に、某研究会で行ったリーディング指導のアンケートに書いた提言を再度問います。和訳の是非をハッキリさせたい、白黒つけたいというのであれば以下の4つを比べるリサーチをやってはどうでしょうか?

  1. 英英派は、その授業を受けた生徒に対して、初見の英文の「パラフレーズ」や「サマリー」などのテストを課す。
  2. 和訳派は、その授業を受けた生徒に対して、初見の英文の「和訳」や「日本語による大意要約」のテストを課す。
  3. 英英派は、その授業を受けた生徒に対して初見の英文の「和訳」や「日本語による大意要約」のテストを課す。
  4. 和訳派は、その授業を受けた生徒に対して、初見の英文の「パラフレーズ」や「サマリー」などのテストを課す。

だいたいにおいて、日本での読みの研究では、top-downといわれる指導法の成果を、top-down的な読みを要求する読解のテストで検証しているものが多かったり、Think-aloud protocolやretrospective monologueを取るのには日本語を使っているあたりが自己矛盾みたいで好きになれないのだが、この4つを比較すれば、かなり面白いことが分かるのではないかと思う。特に、英英(AAO)派も、和訳(大好き)派も1.,2.で「初見の英文」という部分をチェックできるところ、また、他方の得意分野への乱入である、3., 4.でどのくらいのことができるようになっているのかをチェックできるところは興味深いのではないか?英語のみによる授業で、和訳派よりも和訳や大意要約ができるようになっていれば、和訳派は黙るだろうし自らを悔い改めるだろう。それに対して、和訳や大意要約など日本語を駆使・活用する授業を受けてきた生徒がパラフレーズやサマリーなどで英英派の生徒を凌ぐようなことになれば、和訳派の面目躍如というものである。どうでしょう?
面白いことが分かることは充分に予測できるが、こういった授業やテストを受けている生徒がその英語の授業やテストを快く思うかどうかは全く自信がない。