『ことばのために』(その2)

ずっと気になっていたので、荒川洋治『詩とことば』(岩波書店、2005年)を買ってきた。
詩のことばと一般のことばの乖離、詩が読まれなくなっている状況といった、「世間」との距離をよくとらえた上で、荒川氏ならではの視点、皮膚感覚が冴えた記述が随所に見られる。
「読者がいたら、こまる」(pp.135-137)などは、いかにも荒川氏らしいとらえ方・考え方。この項は、氏のパースペクティブとでも言おうか、そういうものが自分に引っかかる。「自己表現派」はどうとらえるだろうか?
それに対して、「自信のある光景」(pp.141-143)では、読み進めていく内の一節にドキリとする。
「ギリシャ、ローマの古典をもとに、あるいは一般に詩の国といわれるフランスなどの西欧の詩や、思想の書物にあこがれ、その方面からイメージやことばをひろって詩を書く人。そのことばも詩論も、世界の詩につながるので、自信にあふれている。宮沢賢治を神格化する人たちも、同様。どんなに情熱的でも、自分が宮沢賢治になる勇気を持たない人たちなので、自己を知ることはない。自信にかげりはない。次に、愛情につつまれた人の詩も、やっかい。」(p.141)
この「詩を書く人」のところを、「英語教師」に置き換えてみる。自己嫌悪である。ここで象徴的に用いられている「宮沢賢治」にあたるものは英語教育では何になるだろうか?
「『濃い』文章は自信家のしるしである。頭脳はいい。器は小さいものの、生涯趣味的な詩を書きつづけることができる。」では、何か、自分の文章のことを言われているようで耳が痛い。
「歴史」(pp.150-155)では、詩が沈滞している状況に対する提言がなされる。
「この状態を脱するためには、詩の主語となる『私』を大胆に拡張するしかない。詩がフィクションであるという詩の基本をあらためて確認し、詩が過剰に『私物化』される動きをくいとめなくてはならない。また、これからの詩は、詩とはこういうものであるという、詩の力、可能性、役割、宿命、課題を詩の中で示していく。大きな空気の中で書く。そんな詩の書き方が必要だと思う。自分のために詩を書く時代は終わった。詩の全体を思う、思いながら書く。そんなやわらかみをもった詩を構想する必要がある。」(p.153)
英語教育をとりまく「大きな空気」を感じ取る必要性が高まる今、英語教育関係の書籍、雑誌を読む以上に、自分を揺すぶってくれる1冊である。
まだ読まれていない方は是非!!