『ひとりは誰でもなく、また十万人』

東京も暑かったが、山口に戻ってきてもなかなかに暑い。私も含め研修を離れ、それぞれの「現場」へ戻っていきその輪郭を感じることとなる。Aspects of acceptance。痛みこそが現実感か。
今回の研修会参加者の方には、資料のファイルはいつでも添付ファイルでお送りしますので、お申し付け下さい。
メールを開けると研修参加者からの声が届いていた。
元同僚から。

  • ワークショップに参加させていただきありがとうございます!あまりお話する時間がなかったのでメイルさせていただきます。改めて、本校の生徒たちに対しての丁寧なご指導、膨大なるコミットメントにお礼申し上げます。今回頂いた資料は先生の集大成的なものだと思います。自分でじっくりと咀嚼しながら読み、参考にさせて頂きます。先生と同じ指導はできませんが、コンセプトの部分は授業に応用させていただけると思います。講習で初めて、いつも使用されているフォントにも意味があるんだ、と分かりました。生徒が書き方の基本で間違いをする分析、なるほどと思いました。

同僚として働いている間にご恩返しができずに申し訳なく思う。
今回、帰路の新幹線で岡山あたりだったろうか、ガーナのサッカー選手団が乗り込んできた。大きく分厚いチョコレートを包む真っ赤な包装紙のようなユニフォーム。某社のコンセプトが妙に腑に落ちた一瞬だった。サッカー協会が団体でチケットを取っていたようなのだが、客車1両を貸し切る人数ではなく、私の席の前後で自分の座席がわからない選手がいた。お互いのチケットを見せ合い席番を確認。私の喋る英語はわかるようなのだが、私は彼らの喋る英語がよくわからない。凹む。が、座席程度のことで大事には至らず。
車中では荒川洋治『黙読の山』(みすず書房、2007年)読了。体裁はエッセイ集なので、呼吸が合うかどうか確かめながら読み始め、中盤の「隣の瞳」あたりで加速・減速が楽になってきた。

  • ちょっとうしろにいる人、まんなかには出てこない人。それなのに、その人がいることがとても大切なことになるのだ。ひとつの国全体の印象を決めてしまう。そんな人がいるものだ。そんなことがあるものだ。
  • まんなかにいて、こちらとじかにふれあう人は、役割がある人なので、どんなにやさしい、あたたかい印象を与えても、それをまるごと信じるわけにはいかない。ちょっと横に、あるいは奥にいる人は、こちらに対し、自然にふるまう。その人がどういうふうに話すか、接するかが、その国や、その世界を感じ取るうえでだいじなことになるのだ。(pp.90-91)

私のとっての前任校の印象も先ほどメールを紹介した同僚の人柄に支えられていることにあらためて気づかされる。
「国語をめぐる12章」(pp. 98- 117)が山場というか、峠かもしれない。ここは荒川洋治らしさを充分に感じられる。愛読者はここで、「元を取った」などと独り語つのだろう。
例によって、自分の現実に置きかえて読む次の一節。

  • 日中、日韓に熱心になるのは、詩人たちが「ひま」だからだ。詩人たちは日本の詩という「社会」で、するべき仕事をしていない。いまこそ書かなくてはいけない詩、考えなくてはいけないことがいっぱいあるのだが、そうした「国内」問題に目を向けることはない。自分を見ないこと。それを求めているのだ。日本は消え、国際交流が残る。それが社会の流れである。(p. 203, 「国際交流の流行」)

母親との小旅行でのエピソードで締めくくられる「読書」(pp. 229-227)がいい。あまりにもいいので引用はしない。これが荒川洋治のあらたな境地か?初出を見ると、最新の作ではない。次回作に期待が募る。
今回の帰路を「帰郷」と感じられる日も近いだろうか。

本日のBGM: Come home everyone(The Lilac Time)