「教室」という装置、あるいは力学

Leo van Lier が 1996年に出した、 Interaction in the language curriculum, awareness, autonomy & authenticity, Longman
をシラバスデザインの拠り所として、研究開発に精を出していた時期があった。Authenticityをある条件を満たすマトリクスで考えるのではなく、より動的なものとしてとらえる to authenticate; authenticationという考え方が当時の私には新鮮だった。今では、どのくらいの英語教師がこの本を覚えているだろうか?(兵庫教育大の吉田達弘氏は参考文献によく挙げていた記憶がある。)
SELHiの一つである、岡山城東高校のWebsiteには、「本校の目標としている「コミュニケーション能力」は、英語のゲームをして楽しむといった程度の「疑似コミュニケーション活動」とは異なります。 より「実践的なコミュニケーション能力」を育成します。」などという言葉がある。
そりゃ、「能力」と「活動」とは異なるでしょうよ、と揚げ足の一つでも取りたくなる。概念のレベル差に関する考慮があいまいなままされる主張に説得力は感じられない。実際の授業で何をやっているか?といえば、e-learning, TV会議システムを利用した遠隔英会話授業、ALTとのディベート、ディスカッションなのである。
かつて、太田垣正義他著「疑似コミュニケーション活動で終わらないために」(『現代英語教育3月号』、pp.23-25,1992年,研究社出版)という論考では教室における言語活動のリストと、その活動が疑似コミュニケーション活動かそれとも真性コミュニケーション活動かというマトリクスが載っていたのが強く印象に残っている。
上述の岡山城東高校はたまたま私の目に触れた事例でしかないにもかかわらず、引き合いに出して申し訳ないが、今も変わらず、「疑似」は偽物で悪者なのだ。「疑似でしかあり得ないもの」を「疑似ではないもの」に見せたいのが性なのだなあ、と思う。全国の英語科、英語コース、国際科などで同じような状況なのではないだろうか。
ことほど左様にAuthenticな英語使用を志向する心には、「疑似」は低級であり、偽物であり、悪者であるというコンプレックスがあるのではないだろうか?
なぜ、「生徒同士が教室で英語により意見交換する」のか、なぜ、「生徒とALTが賛否を分かつ議論をする」のか、なぜ「海外の中学・高校とメールやTV会議システムで議論する」のか?
理由としては「英語の授業だから」以上の答えはないだろう。必然性は初めからないのだから。
目的としては「英語力がつくから」が最たるものだろう。
「疑似であること」という虚構性を飲み込むだけの仕掛けを作ってさえいれば、教師も生徒も、「現実の使用場面」とか「実践的」という言葉に溺れずに済む。

  • 英語だから普段日本語では言わないことも言える。
  • 英語が思いつかなくて言えない内容は言わずに済まして、言えることだけでやりくりする。
  • 言いたいことが英語で言えないから、その代わりに本当はそう思っていないのに英語で言えることを言う。
  • 他の人に良いところを見せたいから背伸びをして身の丈より高い表現を使う。
  • 自分の言葉ではないので、黙る。

こういったものを全て飲み込むだけの仕掛けそのものが「教室」という装置だったのではないか?教室の外に飛び出そう、教室の外界を取り込もう、という昨今の動きはいささか、鼻につく。偽善的、欺瞞的といってもよい。
英語教室はもっと、演劇や詩におけることばのありかた、話し手(書き手)と聞き手(読み手)の関わり合いの仕方から学ぶべきである。「英語を使っている自分もまた自分である」と「英語を使っている自分はもう自分ではない」の間の居場所探し、視点を変えれば、道案内。
上述のLeo van Lierの書を読み返して、そんなことを考えた。