モダリティとしての Can-do statements 考

1月3日付けの記事で取り上げた、Can-do statementsに関して、この分野での日本の最前線の研究者でもある長沼君主氏からの私信を許可を得て引用し、現場の教員、または英語教育関係者のお役に立てたいと思う。
私が紹介し、再三再四賞賛している香住丘Can-do statementsなど現行のCDSに関して考える一助になれば幸いである。(1月3日のコメント欄も併せてお読み下さい。)
長沼氏の私信より該当部分を引用し、解説を加えたい。

  • CDSが現実の教室場面で使いづらい理由には主に2つあると思います。1つ目はコミュニカティブ場面によりすぎており、教室での学習状況とのつながりを持たせづらいという点です。/ 多くの海外のCDSはESL環境を想定しており、日常場面での記述に偏りがちでその点で使いづらい面があり、またテストスコアのフィードバックとしてのCDSもスコアの現実的汎用性を示す意味から、このくらいの点をとればこれくらいのことができると、現実的場面にひきつけて記述していることが多く、実際の行動へ動機づけるという意味では有効なものの教室での学習指標としては直接使いづらいところがあると思います。

まず、この部分を多くの方に実感してもらわなければならない。日本の英語学習者の多くは、中学・高校の授業で、教室で英語を学ぶのである。一例として、ライティングの技能を考えてもらえばわかると思うのだが、教室内でのライティングによる現実のコミュニケーションニーズは皆無に近い。「なぜ、書く活動に取り組むのか?」という問いに対して「現実にこれこれこういうことが出来るようになるからですよ」という現実の使用場面のリアリティは希薄なのである。現実の使用場面のシミュレーションとして、またはその場面に転用できる学習スキルとしての英語力を記述することでリアリティを高める試みと考えればよいのではないか。

  • その意味から先生のブログでも紹介してもらっています香住丘CDSや清泉CDSでは、より教室での学習場面を意識したアカデミックCDSとして、コミュニカティブタスクに基づくCDSとは異なった視点から、スキルベースでのフレームワークの作成を行っています。ただ、ご指摘のように香住CDSは記述に一般性を持たせたため具体性にかける記述となっています。/ これが二番目の問題であり、汎用性と具体性を両立させるのは原理的に不可能であり、どこかで妥協せざるをえないところがあります。とりわけ学習者へのチェックリストとして機能させるためには具体的な学習場面が想起され、経験が伴っている必要がありますが、具体性を増せば増すほど一般的に汎用可能なCDSとしては、他の学習場面で学習している学習者にはとっては経験したことがない活動となり、チェックリストとしての機能が難しくなります。一般性 ⇔ 具体性 / 経験多 ⇔ 経験少 のどこで作りこみをするのかのバランスが難しいですね。

教室での学習場面を意識するということは、シラバスに依存する度合いが強くなる、つまり教師・教授法・教材に依存した能力指標になるというデメリットがあるものの、その教室で学ぶ学習者には一貫したフレームワークが与えられるというメリットもあるのである。つまり、Aという学校での能力指標はA校の学習者のために記述整備されているものであり、異なるシラバスで異なる教材を用いて学習しているBという学校の生徒にとっては上手く当てはまらないことがある、ということである。それでは、能力指標といいながらCEFRやCLBのような共通の枠組みに基づいた能力の比較ができないではないか、という指摘が予想される。その反論はもっともである。しかしながら、現状ではまだEFL環境である日本では、中高の学習者が現実の使用場面として汎用性のある英語運用能力というものを抽出することが極めて難しいのである。EFL環境では当たり前といえば当たり前のことだが、real life taskとしてのコミュニケーションスキルよりも、学習場面でのコミュニケーションスキルの方が優位であり、有意なのである。このことは英語教育の世界ではあまり指摘されてこなかった。私がブログ記事で「直輸入Can-do statements」という用語をわざわざ使ってこの話題を取り上げたのはその点に意識を喚起するためでもある。

  • 実際、ヨーロッパのCEFR、イギリスのナショナルカリキュラムのフレームワーク、アメリカのACTFLのスタンダード、カナダのCLB、オーストラリアのALLなどを比較した研究を行ったことがありますが、実に多様な観点が存在していることがわかっており、レベルやスキルごとにそれらも必ずしも一貫性を持っているわけではないことがわかっています。ここのあたりは能力信念の問題でもあり、背景となる成立状況が異なる以上、それぞれの文脈に合わせたフレームワークとして記述が工夫されていると見るべきかと思います。いずれにしても外部指標としてのCDSには何らかの限界があるのは確かであり、そのものを借りるのではなく、あくまでも発想や枠組みを参照した各校の文脈に合わせた内部CDSおよびフレームワーク作りが今後広まっていくことが肝要かと思います。

日本の現段階でのCDSはまだ、”遂行できる能力の記述”というよりは、”遂行できなくはないと思われる能力につながる学習場面での達成度の記述”のレベルにある、と言えばいいだろうか。使うことで、より使えるようになる、というのは言語運用能力と同じであろう。たとえ、制約のあるものであれ、いろいろな学校でCDSが開発され運用されていくとすれば、その中で、現実の使用場面と教室での学習場面での言語使用との接点が増えてくるだろう。そうなって初めて、より汎用性の高い能力指標の記述が可能となるものと期待する。国産Can-do statementsのcanは能力であり、また心的態度でもあるのだ。

本日のBGM: anything anytime anywhere (Bruce Cockburn)