Redressing the balance

「英語支配」に関する、某TV局の特集を見た。柳瀬氏の掲示板で、慶応大の大津先生が告知していたので見てみたのだが、期待はずれ。
津田幸男(筑波大学)、鈴木佑治(慶応大学)という論客。津田氏は意外にも終始穏やか。「反」英語支配の側に津田氏を選ぶのは理解できるが、その相手方の人選ミスと言っておく。
鈴木氏の「民衆のコミュニケーションのレベルでは、グローバル・イングリッシュ (= Global Englishes)であり、それぞれの言語の持つ文化が、英語に反映されている」「英語は必要悪」という下りは、日本国内に於ける英語使用の実態とあまりにかけ離れた評価だと感じた。global Englishesの一つと認識できる日本での英語使用の実態は存在しているだろうか?日本人同士が英語でコミュニケーションを取る「必要」に迫られている場面は、英語教室以外に存在していないだろう。日本人同士ではなくとも、大多数の日本語母語話者が英語を「日常欠かせないツール」として使用している実態はないのではないか。”Japanese English”として言及される言語使用の実態は、ハワイに於ける英語使用のような亜種としてではなく、常に誤用としてではないのか。ビジネスや政治などでの言語交渉と民衆レベルでのコミュニケーションをいくら分け隔ててみたところで、教室で教えられる英語、教材として提供される英語はほぼすべて英米豪加のnative speakersに基準を置いているのだ。その意味では、鈴木氏が言うように、庶民のレベルでは正用法に固執せずに、自分たちの文化を発信せよ、とバナーだけを掲げるのではなく、Canadian Language Benchmarks などのように、実際の英語使用に於ける場面とタスクの複雑さを柔軟にとらえた能力・運用力指標の「日本環境版」を見せてくれた方がよほど学習者は安心できる。鈴木氏がSFCで実践した英語教育のレベルの遙かに下のレベルで、多くの日本人学習者はつまずいているのだから。
大事なことは、英語を教えている教師自身が、英語使用に関してバランス感覚を備えているかだと思う。日常のツールではないからこそ、意図的にその言語を使う環境を設定してトレーニングする、しかしながらその環境を当然視したり、その環境にいることの価値判断をしないこと。英語学習者として優れている自分と、常に被支配者の構造に位置している英語使用者としての自分、Native speaker信仰(親交?)、欧米言語とアジア言語の優劣などに関して、自覚的であるか、という「言語学習観」と言い換えても良い。
今回の特集では、問題の根本が何も抉られなかった。90年代に鈴木氏がGeorgetownのRoundtableで発表した助動詞の論文で感動したことは今でも覚えているが、今日の話はすぐに私の記憶から消えてしまうだろう。
特集冒頭の「小学校英語(とおぼしき)活動」の映像挿入など、番組そのものに全くもって不満である。
サッカー、中田英寿、現役引退表明の話題はメディアを駆けめぐったが、プロレス、小橋健太、腎臓腫瘍摘出手術で長期戦線離脱の話題は某局のみ。
バランスがとれていると見てよいだろうか…。