足し算、かけ算、引き算、わり算

県の国体成年チームの合宿から帰ってきました。
今回は、全員1Xでの合宿。気温がなかなか上がらず、各選手ともエンジンがかかるまでが大変だったことでしょう。メインの評価項目となる6kmタイムトライアルは、この時期の水温を考慮すれば、まずまずのレベルに達していたように思います。その結果に基づき、何人か個別で指導。年度内の合宿はひとまず終了となります。お疲れ様でした。新シーズンの飛躍に期待します。
合宿中に、国体に向けた県のボート協会の取り組みの進捗状況報告を受ける。間近に迫ってきているのだなぁ、と実感。まさに「ひしひし」と感じた。

合宿中だったので、全日本フィギュアのEX、メダリストオンアイスの放映は見られず。
友加里姉さんの心情を察するにYouTubeも見るに忍びない。こんな紋切り型でしか形容できないことがまた辛くもある。
トリノに行けたはずの彼女が、バンクーバーに向けてどんな思いでこの4年間積み上げてきたのか、そのひたむきな姿勢は多くのフィギュアスケートファン、真のスポーツ人が知っていると思う。

皮膚科の年内最後の診察にも滑り込みでセーフ。年末年始は養生します。

帰宅して、ゆっくりする間もなく、書籍の整理。Basic English関連というか周辺というか、先日の語研の講習会の準備中に気になっていたことをいくつか調べ、考えてみた。

  • 片桐ユズル・吉沢郁夫編 『GDM英語教授法の理論と実際』 (松柏社、1999年)
  • 升川潔・小林裕子訳 『生きた英語の上達法』 (研究社、1974年)
  • 『「ベーシック」英英辞典』 (北星堂、1960年)
  • Harold E Palmer, A Grammar of English Words, Longman, 1938
  • 荒木一男 「基本語」、『現代英語教育講座 5 英語の語彙』 (研究社、1966年)
  • 鳥居次好 「同意語とパラフレーズ」、『現代英語教育講座 8 英語の諸相 I』 (研究社、1964年)

さて、
高等学校学習指導要領の解説がいよいよ発表となった。
文科省のサイトからダウンロードした資料には、解説執筆者の名前はない。書店店頭に並ぶのは年明けになるのだろうか。12月25日付けでの更新ということだが、各指導主事への伝達講習会は発表前なのか、この後なのか。文科省の方、指導主事の方でこれをお読みの方、情報をお待ちしております。
私が最大の関心を払っていたのは、「英語は英語で」という部分ではなく、

  • 「単一技能指導よりも技能連関・技能統合指導」という選択をした理論的背景の「理に適った」説明

だったのだが、その回答と思しきものはまったく見られなかった。私のように、「ライティング」を重視する者からすると、

  • 「ライティング」に特化した指導だけをするよりも「4技能連関・統合」の指導の方が、「ライティング力」がつく。

というのはもっともらしく見えるし、もっともらしく聞こえる。がしかし、変数はそんなに簡単ではない。今、述べた文と、

  • 「ライティング」に特化した指導をするよりも「4技能連関・統合」の指導の方が、「ライティング力」がつく。

の違いをよく踏まえておくことが肝要である。前者にあって、後者にないものは何か?ということでもある。
旧課程 (=現行課程) での指導の何が不備で、新課程の何が、それに優るのかを明らかにしておくことが、この解説の肝であるはずなのだが、その肝がさっぱり見あたらないのだ。

  1. ライティングに特化した科目でありながら、ライティング力を養成するのに効果が薄い教材・教案・指導法による指導
  2. 技能連関・技能統合した科目でありながら、4技能のどれをとってもその力を養成するのに効果が薄い教材・教案・指導法による指導

をどのように排除するのか、それこそが、教室現場の「臨床の知」であるはずなのに、それが活かされていない。1.がダメだというのは素人目にもよくわかるはずなのに、そこに適切な手当がなされていなかったわけである。だとしたら、まずは単一技能の指導改善で十分に成果はでるのである。では、2.がダメだという時はどうするのか?その時には、各技能「そのもの」のどの部分に問題があるのか、もう一度個々の技能に立ち返り、診断する必要があるのではないか。もしそうしないことで改善がなされるとすればどのようなものになるのか、その部分が気になるのである。
11月の「第2回山口県英語教育フォーラム」でも大きく取り上げた、福岡県香住丘高校での授業実践では、4技能の連関・統合が極めて効果的に取り入れられていて、成果をあげている。これは、多種多様なインプットとアウトプットをしっかりとつなぐシラバスとなっているから。しかし、香住丘の成功は、ただハイブリッドな活動を授業に取り込んでいるからではないのである。例えば「英語劇」を考えてみて欲しい。「Formatted で Scriptedな活動であり、疑似コミュニケーション活動にしか過ぎないから、本当の英語力伸張には寄与しない」などと誰が言えるだろう?
「現実の言語の使用状況を模したハイブリッドな活動を取り入れたから、即、コミュニケーション能力が育つわけではない」ということにもう一度きちんと光を当てて、指導要領を読み直したら、痒いところがどんどん分かって来ると思う。
例えば、「ディクトグロス」。聞くことと書くことの有機的な連関・統合ということで、SLAの観点でもお墨付きを得たかに見え、急速に普及しつつある「ディクトグロス」という教室内活動がある。この活動により、現実の言語使用場面に於けるコミュニケーション能力の何が養成され、伸張するのか、私にはよく分からない。しかしながら、英語力の養成・伸張には極めて効果が高いことは経験上私にもよく分かる。ここで私がいう「英語力」というのは、海に浮かぶ氷山の模式図で示される水面下の基底能力とでも考えてくれればいい (英語教育学者はこういう時に、理論化・言語化してくれると拝みたくなるくらい尊敬するのだけれど…)。そして、この活動がうまくできない学習者が、それぞれのハードルをクリアーしようという段になった時に、やはり「聞くこと」の何でどのように躓いているのか、「書くこと」の何でどのように躓いているのか、ということと指導者もきちんと向き合うことを余儀なくされるのである。技能を統合した活動を授業の中に取り入れるからこそ、それぞれの技能そのものをきちんと扱える準備がなされていなければならないのである。

今回の「解説」は、「学習」指導要領でありながら、このような「学習」についての解説が貧弱で、「活動」についての解説も、表面的であるがために、教師がシラバスを組むための、授業案を書くためのガイドブックとはなり得ないものに留まっている。
以前も指摘したことの繰り返しになるかもしれないが、

  • 「英語力そのもの」や「発達段階」「到達目標」に関して、何一つ明確なことを述べず、学校種がこれだけ多様な高等学校において、英語教師個人・その学校のチームとしての「シラバスデザイン能力」「授業デザイン能力」に依存した状況下で授業を行わせ、その実施状況や成果はしっかりと問う

というのが今回の指導要領なのである。指導要領が世に出た以上は、それに対する疑義を唱えたり、批判したりすることは罷りならん、その理念を一人一人の教師自らが体現し、その目標を実現するために邁進すべし、などと本気で考えている人がいつの間にか大多数になってしまったというのだろうか。一日も早く指導要領の「法的拘束力」をなくすこと、が必要不可欠だというのが、私のかねてよりの持論である。

今回の高等学校指導要領が実際に現場にどう降りてきて、どう馴染むのか、この「解説」の持つ役割は大きいと思っていた。しかしながら、一読、「通り一遍」のもの、との印象しか残らない。結局、今後出版される (現在、おそらくは急ピッチで作成中の) 教科書頼みになるのだろうから、今度は、「教科書調査官」の意向と力量に現場教師は影響を受けることになる。そして、教科書が出てしまえば現場教師は被害者意識など持っている余裕はなく、何か採択し、何かを使わなければいけないのだから、一人一人の教師が今からでも遅くないので教科書会社・各編集部に

  • どんな「言語観」に基づき、どのような英語力を、どのような発達段階を通じて身につける教科書なのか?
  • そのために、生徒にはどのくらいの英語力の前提と、学習上の努力を要求する教科書なのか?
  • そのために、教師にはどのくらいの英語力の前提と、指導上の努力を要求する教科書なのか?

ということに関して、注文・要求を出してみるといいのではないか。

「コミュニケーション英語 I」のうち、「書くこと」に絞っただけでも、まだいくつも指摘しておきたいことがあるのだが、年末年始は愉しく過ごしたいので、また日を改めて。

語研の冬期講習会の感想がいくつか寄せられた。ある方のひとことで充分、報われる気がした。

  • 技術じゃなくて、「言語観」とでもいうものだと思う。だからこそ、誰でも「そうか、そうだよね」と思ってもらえれば、明日からでも変われる。

一夜明ければ、明日は雪景色か。

本日のBGM: Mix (タイライクヤ)