”But it took me a long time to see.”

ELECの研修会に続き、某県某高校でのワークショップを終えました。
率直に言って、予想以上に「充実感」を持って終われました。
非常に熱心に話しを聞いてくれる先生方を目の前にしてひしひしと感じるたこと。

  • マニュアル化、テンプレート化された「授業モデル」に頼らず、自前で考えようという目の前の指導者の熱さと、世間で求められるとされる「高校段階でのライティング指導」の状況との温度差。

私は、かれこれ四半世紀、「ライティング指導」を中心に取り組んできました。それ以前にも、日本中に、「英作文」「書くこと」に関しては豊かな実りがあったし、同僚、先輩、そして生徒に恵まれたおかげで、取り組み始めてから15年くらいである程度の手ごたえを得ることが出来ました。
しかしながら、私自身2001年からいろいろな研修会の講師をもう10年以上続けていますし、私以外にも沢山の方が、ライティング指導の改善を訴えてきましたが、ライティング指導が改善し、充実したという声が各地で響き渡るには至っていません。『英語教育』 (大修館) などの特集で、「現状分析」や「今後の課題」とかを読む限り、「日本の高校生がライティング力をメキメキ付けてきた」という気配は、まだ感じられないように思います。そうしているうちに、指導要領が改訂となり、新課程では「ライティング」という科目を消滅させるという暴挙に出る始末。
書く力のなかなか伸びない生徒が駆け込み寺宜しく拠り所とする大学入試対策の『学参』や『予備校のテキスト』で「自由英作文」などというタイトルがついたものには、そのモデルや解答例として示される英語の文章に目に余るものがまだまだ多い、というか、劣悪な商品が今まで以上に市場に流れています。
いろいろな学会での発表概要を眺めて見ると、計量化、コーパスの利用も含めて、書かせたことばに対する科学的合理的処理方法やフィードバックの研究は盛んになってきたようですが、そもそも「どんなテーマ・主題で」「何のために・誰に向かって」「どのようなことばで」書くのか、という根本が議論されることは少ない印象を受けます。
「書く」ことの土壌そのものが、どんどん痩せ細ってはいないのでしょうか?
ライティング指導評価について、秋から冬にかけてもまた講演の依頼があるのですが、入試対策とか進学実績を伸ばす指導法のために、とか、「こう指導すれば必ずライティング力が伸びる」というようなinstant remedy、明日の授業ですぐに活かせる「小ネタ」を求めるような企画・趣旨なら断ろうと思っています。試行錯誤をせず、またはそれを許さず、最小のリスクで最大のリターンを、というようなマインドに、教室でのダイナミズムまで支配させてはならないと思っています。
時々思うことがあります。

  • 本当に、日本中のそんなに多くの高校で「書くこと」の指導評価を充実させたいと思っているのだろうか?だったらなぜ、改善されていかないのだろうか?

一つ目の問いに対する答えがYesに振れれば振れるほど、二つ目の問いの間に詰まります。でも、答えは簡単なんです。
現場は、生きているから。どんなに「したい」ことがあっても、「できる」ことは限られています。
「本当にライティングの指導を変えたい、充実させたいと願っていますか?」と自問して、Yes! という答えが響いた時に、「では、今までやってきたことのうち、何を止めて、新たな取り組みを始めますか?」という更なる問いに対する答えを用意しておくことが必要でしょう。どんどん試してみましょう、とかポジティブなことを言って、学習者に「気軽に書かせ」たとしても、指導者として、彼らが英語というもうひとつの自分のことばとして紡ぎ出した「表現」や「論理」の善し悪しをきちんと見 (極め) ることができなければ、適切なフィードバックができません。自分の紡ぎ出したことばが適切に扱われなければ、次に書く「気」は重くなり、やがて失せるのではないでしょうか。では、新たに「書くこと」「ライティング」の指導に力を入れよう、というときには、では今まで力を入れてきた、どの部分は、これまでよりも少ない力で「賄える」と判断するのか、そして決断、実行するのか?これは新たな実りへの楽しい選択でもあり、自分を追い込む苦しい選択でもあるでしょう。でも、いつだって、どこにいたって、どんな生徒に対峙していたって、「教えること」はそういった「もどかしさ」を抜きには語れないはずです。

新課程では、「技能統合」などとまことしやかに言われています。確かに、「正四面体モデル」を持ち出すまでもなく、現実の言語運用はハイブリッドなものです。しかし、指導する時にも常に「ハイブリッドの技能」で考えるのは大きな間違いです。
ハイブリッドなスキルを求められるものとしてスポーツにたとえてみましょう。たとえば、ロンドン五輪の競泳、個人メドレーで活躍した萩野選手。彼が、もっとタイムを伸ばそうとした時に、トレーニングするのは、やはり、個々の種目や技術になるはず。得意な種目での伸び代と、苦手な種目の伸び代を分析し、その改善に必要なコストを考え、時間とエネルギーをどこに投入するかを選択することになります。パフォーマンスとしてトータルに見るのはいいのですが、「平泳ぎ」や「バサロ」とか、「スタート」や「ターン」とか個別の種目やスキルのトレーニング指導ができないコーチでは、それ以上にタイムを伸ばすことはできないのではないでしょうか。だったら、英語学習でも同じことが言えないでしょうか?「ライティング」という技能と、その下位技能に関して、きちんと学ぶ機会を、教師のキャリアの中で持つことが必要だと思うのです。

  • いや、スポーツの比喩で語るのは間違いだ。スポーツのような技能とは違って、英語の技能はコミュニケーションによって発達するのだ。

というのであれば、専門的な知見を元に、現場の「経験」を軌道修正するのが、研究者・有識者に求められる部分だろうと思うのです。
いつ頃から「発信型」とか「アウトプット」を声高に求めるようになったのでしょうか?
発話を急がせたり、「出す量」を増やすことばかりに汲々とするよりも、出せる量の何倍にも及ぶ「インプット」をいつ、どのように「適切」に与えるのか?を現実的に考えないと。ビールなら大ジョッキで3杯くらい飲める人でも、同量の「水」ってなかなか飲めないですから。でも、一日のトータルで見れば、結構な量の「水」を飲むことは可能です。
「インプット」させるなら、「アウトプット」に繋がるように、というのでは不十分で、これだけ少ないアウトプットであれ、自力自前でさせるには、これだけ大量の、豊かなインプットが必要なんだ、というリアリティを、まず教師が把握しないと。どんなに出題形式を多様に変えたとしても、特定の文法項目を含む英文で既に答えの決まっている英文をいくら完成させたところで、それはその学習者のウチからの「アウトプット」ではないだろう、という疑いを自分に向けることから始めましょう。

ニュースで耳にした「教育改革」の話し。
中教審のメンバーが、教育の問題を本当に解決できるだけの智慧を持っているのなら、今までの答申はことごとく生かされ、教育現場は豊かになっているはずでしょう。この審議会そのものをどう改革するのか、そのためのあらたな「審議会」を作ってはどうなのでしょうか?産経にはこう出ていました。

新制度は、大学4年に加えて大学院で1〜2年学んで取得できる免許を「一般免許」と規定。大学院では教育実習中心で指導力を養い、情報通信技術の活用など新しい指導法も学ぶ。

3つ異論を。
まず、大学院で学ぶことはいいことです。ただし、徹底的に「理論」を学び、「研究」をすることにこそ意味があるでしょう。大学院で教師志望者の指導に当たる「先生」は、いくら現場経験が豊富だと言っても、現役の中高教員ではないのですから。「今」の現場の問題を、肌で感じるには、学校種 (中高、中等教育) 、学校間格差 (国公私立、学科、全日、定時、通信、いわゆる入試でのランク、地域など)、 教員間格差 (専任教諭、常勤講師、非常勤講師、臨任など) の要因を抜きにしては意味がないでしょう。ただ、それらを大学院で「体験」できるとは思えません。無いものねだりをするよりは、徹頭徹尾、理論や研究で専門性を高めることの方を優先して欲しいと思います。困難な環境で日々奮闘している現場の先生方は、1年とか3年のスパンで一人の生徒と共に生き、育てているのに、そこにたまに来た人に「観察」されても、あまりよい気持ちはしないでしょう?
次に、「実習中心」っていうんですけれど、いったいどこで「実習」するんでしょうか?
・ 現場に問題があり、
・ その現場を今のような教師に任せておけない、
から、新たな制度で教師を養成する、というのではないのでしょうか?にもかかわらず、実習は「今の現場」で行うんですか?問題のある教師に、指導教官が務まるのですか?ノービスの教師として、大学院生教育実習生が今以上に増えた現場は、今以上に指導が手薄にはならないのでしょうか?生徒一人一人をきめ細かく見ることが出来るのでしょうか?
3つ目はお金の問題。
大学院生は、実習に出ている間、「無給」なのでしょうか?今でも、非正規雇用というか、非常勤講師をして、大学院に通う費用を捻出している人は多いと思うのですが、長期にわたる「教育実習」は、ことばは悪いですが、「ただ働き」をさせるだけさせて、学生を追い込むことにはならないでしょうか?地方自治体は公立私立を問わず、教育にお金を掛けている訳です。一番大きいのは、人件費の負担でしょう。現職教員の数を100とした時に、今よりも20%増やして、トータルを120とする。その20%を大学院生で担う前に、現在、非正規雇用で「現場」を支えている人を専任・常勤で採用することが先決でしょう。今よりも専任教員が増えれば解決する「現場の問題」は多いと思います。現行制度を変える前に、今の現場を支える人材を増やすこと、そしてその人たちを少なくとも経済的に安定させること、です。では、なぜそうしないのか?人件費、お金を使いたくないからなのでは?「そんなお金を教育に回す余裕はうちの市にはない」という自治体は、では教育以外の何が優先されるのでしょう?
現職教員の再教育とかも、「中教審」は好きですよね。例えば、正規で5年働いたら1年、10年働いたら、2年、20年働いたら3年、有給でのサバティカルが与えられるような職業になったら、優秀な「人材」もいまよりも教育の分野に集まるのではないでしょうか?サバティカルで、長期間現場を離れて研修する間、手薄になる現場を支える人材として、「ノービス」の大学院生を活用する、というのであればまだ現実味がありますが、それでもその間は「有給」であるべきでしょう。では、なぜそうならないか?

  • 公教育に、そんなにお金をかけても、それが教師の人件費に使われるのは納得できない。
  • 民間企業は、競争原理の中で汲々としているのに、教師だけに、そんな特権を与えてはならない。
  • そんなムダな金と時間を教師に与えてなるものか。

というような「教師に豊かさとか余裕を認めようとしない」社会的な合意があるかのようです。本当に教育を豊かにしたいなら、多くの人が「教師になりたい」と思えるような、教育環境、教育現場の好感度アップの政策こそが必要ではないのでしょうか?
医師は教師と同じく、免許を取得して現場に立ちますが、6年以上学び、臨床での実習も多く、労働条件も過酷です。でも、多くの優秀と言われる人材が、そこを目ざし、多くの高校が「医学部」への進学実績を教育の成果としてアピールしています。では、「教育学部」への進学実績はなぜ、アピールするだけのものと映っていないのでしょうか?
司法試験も、難関の試験で、合格しなければ実習も出来ず、現場に立てません。法学部だけでは足りないとして、「法科大学院」をあちこちに作りました。今、法科大学院の置かれている状況は、バラ色でしょうか?
中教審の人たちは、教育現場って、今、ここにはないけれど、どこかには既にある桃源郷のような所だと思っているのでしょうか?いやいや、日本で最も信頼できる教育の専門家なのですから、そんなことはないでしょう。素晴らしいプランがあり、そのプランを実現するための人的支援、財政的支援もきちんと考えているんでしょう。あとは現場の先生方が、我々の提言・答申を実現する気があるかどうかだけです、なんてことは言わないと信じたいものです。
いや、でも、「中教審」の次の段階で、「提言・答申」を受けた文科省の実務を担当するお役人が実際の政策としての文書、つまり文章を書くんだったな。みんなで話し合って、落としどころも見つけて、という会議の後で、決まったことをまとめた文書を見たら、こんなことが結論だったっけ?というようなことがないといいなあ。
結局、「ライティング力」の問題か…。

本日の晩酌: 信濃錦・純米吟醸・無濾過生・美山錦50%精米 (長野県)
本日のBGM: I wanted to tell you. (Matthew Sweet)