Don't let the rest take care of itself!

久々の更新。
あっという間に期末直前。
23日の祝日は、英授研に午前中だけ参加。ビデオによる授業研究。参加費の分は質問してきました。
前半の中学校2年生の授業は、よく知っている先生の授業だけに、授業を作って行くにあたっての興味関心のありかなどをかいま見た気がした。フロアからの質問で「現実の発話では、そのようには言わないのでは」という指摘があったのだが、教室には教室の現実があるので、教室外の現実を全ての言語使用の基準・規範にすることには慎重でありたいと思う。まず、そんなこといちいち気にしてたら活動を楽しめないでしょう?
後半は高校の授業。3月のSELHi Forumでモデル授業をした山岡先生のビデオ。文科省がビデオを作成していないので、米原高校関係者の撮影したものを編集して見せてくれた。とにかく個人的に近年好感度No 1といっていい高校の授業だったので、あの大きなフォーラムでの授業を記録映像として残していない文科省の罪は大きいと声を大にして言いたい。
ディベートまでの系統的指導がこの米原高校の大きな柱だが、授業での生徒のパフォーマンスに嫌みがないのですね。プレゼンテーションもディスカッションも、教室内では日本人生徒しかいない、日本人教師しかいない中で、厳しく楽しく英語を使っている。動機付けや意欲が、擬似的設定を超えている好例だろう。「クラスで出た意見をまとめて、海外の高校とインターネットを通じて議論する」などという、現実を取り入れようと躍起になっているものの現実には(まず)あり得ないタスク設定に頭を痛めるより、教室で出来ることを胸を張ってやり続ければいいのである。
今回見て、改めて感じたのは、山岡先生の reformulationの見事さ。即興でこれだけ、しかも生徒のレベルの英語で、reformulate出来るようになりたいと思う。
一点気になったのは、「ライティングにおけるテクストタイプ」についての質問が理解されなかったこと。「最後のライティングでは、きちんとしたエッセイを書かせるので、accuracyに重点を置きます」というのは、昨今の"Fluency-first-but-the-rest-will-take-care-of-itself" approachとは一線を画する非常に大切な姿勢なのだが、その前に大事なことがある、ということを伝えたかった。
資料の英文読解・理解がディスカッションの出来を左右するわけだが、いってみれば局地的戦闘であり、その場でのアイデアの応酬であるディベートやディスカッションに対して、最後のまとめのライティングは宣戦布告や戦勝凱歌のための大統領演説みたいなのもので、ディスコース全体としてのフォーマットそのものが変わってくるわけである。ディスカッション、ディベートが出来たから、すぐにまとまったエッセイが書けるか、というと、エッセイをエッセイたらしめる一定の型に習熟させるまでには時間がかかるという認識がまだまだ薄いのだなあと感じた。とりわけ、資料英文がデータを重視したinformativeなものであった場合に、それを情報だけを移し替えてargumentativeな文章に書ける生徒は少ない。必ず、構成や展開に不可欠な定型表現など一定のガイダンスが必要である。ここにライティング指導の難しさ、ライティングの基礎理論を知ることの重要性がある。生徒の優れたモデルや、前年度までの優秀作品を示して音読させたり、段落整序や、分整序による段落完成の活動を取り入れたりして、「ライティング」をさせておくことが、その後の発展的な課題に取り組む礎になるのである。今回の実践はどちらもよく練られた授業であり、その背景や基盤も充分に理解できるものであったが、巷に溢れる「コミュニケーション活動」が「自己表現活動」と結びついた実践では、ライティングは不当に貶められているように感ずることがある。「貶められている」という表現が適切でなければ、「個々の技能が、それ自体で成り立っていない」とでも言えばいいだろうか。最近見た他の授業の中には、リスニング、スピーキング、リーディングなどが盛り込まれている授業なのだが、そのそれぞれの活動がそれ自体で成立せず、最後の「自己表現活動」であるライティングに依存することによって、かろうじて支えられているような印象を受ける授業が散見された。本当に、その前のリスニングで「聞くこと」は出来たのか?「読むこと」は出来たのか?また、「なぜ聞かなければならないのか?」「なぜ読まなければならないのか?」という根本的なところで、常に他技能におんぶにだっこになっていないだろうか?今一度、個々の技能の基礎基本を振り返るべきなのではないか。
ライティングがメインの教師から言わせてもらえば、ライティングは自己表現活動のための出汁をとるために存在しているわけではないのです。
本日、授業後は高2の生徒が、進路と学習法の相談に来た。コース選択の時期なので切羽詰まっているのだろうなあ。「英語に強い」大学に関しては、一般論を言うにとどめた。学習法はいつものように、復習と音読の重要性を指摘。「予習は鷲掴み、復習は虱潰し」。リスニングはかけっぱなし、聞き流しは絶対にダメと釘を刺した。文法は「名詞は四角化で視覚化」「動詞の前ではとじカッコ」「足跡探して左から右へ」「カッコ2つでつなぎ語探し」という基本を確認。あとは、普段からアンテナを張って「ああ、いい表現だな」「格好いい言葉だな」と自分が感じたものを理屈抜きで覚えていくという姿勢を伝えた。コースが決まって高3になってもこれを忘れなければ、それなりに英語はモノになっているでしょう。先日も高3の生徒が「先生のやり方で1年生の時から教わっていたら、みんなもっと英語出来るようになってるのに」などと言っていたが、それは(不遜に聞こえるかもしれないが)半分正しくて、半分間違っている。そう思えていること自体、その生徒にかなりの英語力があることを示しているのである。高2までに、そのレベルの英語力をつけてきたから、今、授業で行っている学習方法が効果的か否かが分かる。1年生から、今の3年生にやっているようなやり方をしていたら、多くの生徒がドロップアウトしてしまうだろう。発達段階の、そのレベルそのレベルにおいて、適切なboostが必要だということだ。