Have you got what it takes?

昨日のブログで言及した memoryの語法に関して、愚痴ってばかりもいられないので、”愚愚”ったり、”入れ句”ったりしてみました。学習者コーパス(たとえばJEFLL ( http://scn02.corpora.jp/~jefll03/cgi-bin/login1jf.cgi))はこういうときには全く使えないので活用が難しいですね。信憑性の問題もあるので、更に、お“さら”いもしておきました。
動名詞をすぐに補語としてとる用例が(私にとっては)意外に多くヒットしました。of:Φ=3:1という感じでしょうか。使用実態からして、ofがなくても間違いではないということなのでしょう。ofのない方を用いる人は、おそらく、

  • My earliest memory is when I was 3 years of age

というように、ofのない発話をするのではないかと推測してみました。
私が自分自身の英語使用で身につけた語感は、

  • My earliest memory is of a major fight between my parents that I think was when I was 3.
  • My earliest memory is of when I was 4 and had gotten chicken pox.
  • My fondest memory is of when my twin granddaughters were born.

のような時にもofを伴うものです。
ドナルド・キーン氏(米人)の発話で、

  • I am surprised now by how much more vivid my memory is of the fish in the Indo-Chinese restaurant than of the sights of Paris.(Jan. 30, 2006)

というような例が手元にありますが、ここでは、 ”my memory of …”という名詞句の比較ですから、ofがなければ英語として非文になってしまうのは自明でしょう。
これに対して補語に用いる場合は使用頻度が高い(=容認度が上がる?)ということは、

  • I vividly remember inviting him up to my hotel room that day in 1972. (『新グローバル(2nd)』

などの動詞の目的語の-ingと同じ意識での発話をしているのでしょうか?
これは、名詞がmemoryというrememberなどと意味で関連する語だからなのか、少し注意して観察してみたいと思います。
次の例では、rememberが用いられる文と前後してmemoryが用いられているのですが、ここではofを用いています。

  • It seems that most people’s earliest memory is of some kind of accident. However, for a lot of people born in the UK around 1936 their first memory is of the air raid sirens being tested in 1939. People remember that sort of thing, too.

こういう点を調べるには、英和辞典のmemoryの用例はほとんど役に立ちません。和英辞典の「記憶」や「思い出」もまず頼りにならない。語法に詳しい方の情報をお待ちしております。
この項目と関連するかどうか怪しいですが、私が高校生の頃、疑問だったのは、

  • I remember the day when we first met.
  • I will never forget the day when we first met.
  • I will treasure the day when we first met.

などのthe dayは「もの」なのか「こと」なのか、ということでした。日本語でも、「昨日のことのように覚えている」などと言うので、「ことがら」の解釈で問題ないようにも思うのですが、

  • The diary had started on the day when we first met.

が事柄の解釈を持ちうるのか?流石に、それは無理でしょう。教員になってからも、以前、questionnaireを作って、同僚のALTを質問攻めにしたことがあるのですが、質問の意図を理解してもらう段階から難儀しました。いろんな人がいろんなことを言うので、自分の中では未だに理路整然とした説明ができておりません。
英和辞典の dayの項目に、こういうことについての解説を誰か書いておいてくれないでしょうか?
とまれ、自分の言語体験を疑って、英語の実態との摺り合わせを普段から意識していくことが重要、ということですかね。生涯学習、日々精進です。
今日の高3はセンター対策、文補充。昨年度までの段落版と、今年度も踏襲された長文版と。
段落版では、肯定と否定の4つの枠組みを板書して解説。本文の実例と照らし合わせる。全体否定と部分否定の二つだけでいくら考えても、論理を把握できないことが多い。全体肯定と全体否定、全体肯定と部分否定との関係をしっかり押さえさせる。その上で、部分肯定と部分否定は完全に交換可能ではないことを指摘。100%から0%までのスケールで確認しておいた。今日の英文では、

  • Generally speaking, insects are not well liked by people.

という第一文だけから、次の展開を予測させる。

  • <not+ liked>ということで、「好かれていない」「毛嫌いされる」「敬遠される」理由がくる。
  • <昆虫が好かれていない>というネタふりから、<好かれている他の生き物>を強調する。
  • <not wellで部分否定と同じだから、「あまり好かれていない」と対比される、「少しは好き」「敬遠しない」という内容が来る>
  • <受け身で by people>とわざわざ言っているから、<どういう人が少しは好きなのか>人に焦点を当てる。

などなど。予測を検証させるために読む、というのが普通の手順、と説明しつつ、今回は選択肢の並べ替えに取りかかる。
瞬殺!
答えを確認した後、in factの論理展開を解説。本文の最後に出てきた、toleranceを辞書で確認。動詞tolerateの同義語を整理。bear/ endure / stand // put up with などがすぐに出てくるあたりは流石に進学クラス。put up の図解を板書し、再確認。復習での音読の徹底と、語彙の拡充・整理が不可欠であることを強調。
長文版では、空所は3/6なので、埋めてはいけない空所を確実に認識せよ、と注意。何をバカな!というなかれ。実際、模試の誤答分析でも、埋めてはならないはずの空所を埋める解答者がかなりいるのだ。空所の位置について解答に際しての一般論を。

  • まず、第一段落はきちんと読み主題を探る。以下、迷ったら主題へ戻るというのが原則。同じ空所でも、文章の最後の最後にある空所には、何か入らないと完結しないかどうかはすぐに判るのに対し、段落の最初や文の途中で、まだ後続の段落がある場合に段落の最後が空所だと結構時間がかかること、などは頭の隅に入れておき、実際に読み進めて、空所に入らないと意味・内容が繋がらないものと、そうでないものとを識別。入れるべき内容を踏まえて、選択肢を見る。余る選択肢はないのだから、必ず時間をかければ正解にたどり着く。答え合わせで終わらせず、旧情報・新情報などの情報構造、ディスコースマーカーだけでなく、名詞句も含めて論理展開を辿る精緻化リハーサルを音読で、キーワードの展開・同意語での言い換えを英英辞典で、文章の英文、選択肢の英文のどこの目印に気が付いていれば、解答の決め手となったのかを明確にしていくことが重要。

というような姑息な対応です。速読速読と慌てなくても、読めていれば自然と速くなるのであって、速く読んだからよく分かるとは限りません。速読を意識する最大の利点は、ピリオドならピリオド、段落なら段落の最後までをとにかく読むことにあろうかと。そうすることによって手がかりは増やせますから。ただ、概要把握と内容理解の設問に答えただけでそのピースを読んだことにして、どんどん新しい教材に移ってしまうのが、今風の英語教育の読解指導の持つ欠陥でしょう。関西大の靜哲人氏の言うように、「読んだ後に英語が残る」指導になっているか、高校英語に突きつけられた大きな課題でもあります。音読ブームも、この今風の読解指導の欠点を補うために取り入れてくれているなら大歓迎です。
自分の経験則ですが、英語を残すためには、情報・論理・表現のそれぞれの観点で、語学学習のどこかの段階で精読をやる必要が出てくると感じています。でも、教室の読解の授業でそれをやろうとすると、逐語訳で終わってしまう危惧がつきまといます。
今風の英語教育であれば、「ディベート」というのは、インプットとアウトプットを結びつける大いなる可能性を秘めた活動と言えるのではないでしょうか。ただ、今のところは、あまりにも

  • ディベート=オーラルコミュニケーションの最終段階

という意識が強すぎるのが困りもの。
極めるディベートもあれば、始めてみるディベートもあるだろう。指導者としては、ディベートの方法論を学び、ディベート指導免許皆伝を目指すことに汲々とするのではなく、ディベートならディベートという活動を取り入れることで、自分の授業を揺すぶることからスタートしても結構ではないか。ディベートを核に据えて、「読み」の精度を上げ、「表現」のレベルアップを図り、「耳」を鍛え、英語の「音」を自分の「声」に変えていくのだ、という意識を持ってみることから始めて見てはどうだろうか?
昨日のarishima.infoでレポートされていたのだが、進学校では、準備に多くの時間がかかることがディベートが敬遠される要因なのかもしれない。たとえば、高校3年生での授業を考えてみよう。

  • 10時間も準備して、実際のディベートは1時間の時間中で終わってしまう。そうして扱えるpropositionが一つ。だったら、その同じ時間で、過去問の長文を5つ読んだ方がいい。

などと思ってしまう同僚にディベートの効用をどう説くか?
私の持論で、いつも言っているので、"There you go again!" とのブーイングは覚悟しているが、

  • 英語によるディベートが日本の英語教室の中で行われるコミュニケーションニーズは限りなくゼロに近い。しかしながら、日本の英語教室で学ぶ学習者のコミュニケーション能力を養成し、その身につけた能力を発揮するニーズを満たすのに英語でのディベートは極めて有効である。

ということを繰り返しておく。
本当に入試問題を10時間で5つ読んだとして、おおよそ600 words x 5 = 3000 words。論理展開、文構造など一定の型にはまった英文で語彙レベルもある程度制限されている文章を、3000語分、辞書を引き引き予習し、授業では教師の模範日本語訳を聞き逃さないようにしてノートの自分の和訳を訂正するというような授業で養成される英語力ってどんな力なのだろう?
私は伝統的な読みの授業であっても、本当に英語が読めて書ける力量のある教師が精読を行い、要約をさせているのであれば、すぐにライティングやディベートに移行できると信ずるものである。
ディベートのためには、肯定側立論、否定側立論それぞれ、資料の読み込みが不可欠である。情報を単に仕入れる読みの力も必要、内容を批判的に読み取る力も必要。さらには、一つの資料からだけでは信憑性・妥当性に問題が出るので、様々な観点から資料を用意して広く・深く読む力が必要となる。そこから、対戦相手の論理に対して切り込むために同じ意味でも幾通りもの切れ味のよい表現を、さらにはジャッジにも訴えかける誤解のない明確で直接的な表現を吟味整理する必要がある。当然、自分自身が自信をもって使いこなせる必要があるが、言えないので言わずに済ますことは許されない。その足場まで、自分を高める必要がある。そうした周到な準備を踏まえて、実際のcross examでは疑似即興的な言語交渉、時には本当に即興的かつ効果的な言語交渉が要求される。
「読み書きの力をつけたいのでディベートには消極的」というような同僚を説得する場合には、全国の中学高校でディベートをやりきった生徒の声を多く集めてみてはどうか?そのunited voicesに語らせるのである。
たとえ負けたとしても「今度はもう一度ちゃんと準備して戦いたい」という生徒が続出するディベートもあれば、残念ながら、もう金輪際ディベートはやりたくない、という生徒を生んでしまうディベートもある。そうかと思えば、「力は付いたかどうかわからないけど、やってて楽しかった」というディベートも存在する。気をつけなければいけないのは、最初の3か月くらいでの生徒の反応だけが成否ではないということである。信念を持って生徒を鍛え、その鍛えられた生徒によって支えられた授業の意義が一人一人の生徒に実感できるまでにはある程度の時間が必要である。しかし、いったん、それが実感できれば、そこからは加速度的に授業が成長、進化するものなのだ。
ディベート実践においては、学習者は目的・意義のあるreadingをしていると実感するだろうし、writingがいかに自分の英語力を骨太にしてくれるか、その効果に驚きつつも、自信を深めることだろう。準備した草稿を口にして始めて、言葉が自分のものになっていくのを感じることだろうし、対戦相手になったことで、intelligibleな発音を身につける必要性を感じるだろう。ジャッジのような客観的な聴き手になることで、言葉を発する者の「からだ」が「こえ」と不可分であることに気づくかもしれない。指導者は、といえば、あらためて4技能をきちんと学び直すことができる。この意味は大きい。

  • 「英語力がつく」「英語力が伸びる」授業であれば、科目の名前はどうでもいいでしょう。

入試対策と称して読解に重点を置いているのに、高校でいつまで経っても読みの力をつけることができないから、予備校の授業で「目からウロコが落ちた」などと言われてしまうのである。「ライティング」の授業で別解を豊富に与えて入試問題の演習をしています、といいながら肝心のヨコ糸も貧弱で、タテ糸のロジックも押さえ切れていないから、付け焼き刃の「自由英作文」参考書・問題集に収録されている英語としてとても歓迎できない解答例を覚えて高校を卒業していってしまうのである。高校英語の矜持はどこに?
偶然目に付いた岐阜県立長良高等学校の公式サイトで、久々に高校英語の生の声を聞いた気がする。(→http://school.gifu-net.ed.jp/nagara-hs/english/H17English.htm
シラバスの細部まで諸手をあげて賛同するわけではないが、「高校英語とは?」と自問するよい契機となるのではないだろうか。
夕飯はお稲荷さんで軽く済ます。
今晩はK1 Max。魔裟斗 vs. プアカーオ。放送は9時からだけど、試合開始は何時になるやら…。

本日のBGM: And Your Bird Can Sing (The Beatles)