『強い気持ち、強い愛』

週末の本業イベント終了。土曜日はいつもお世話になっているお店の看板娘さんのお誕生日に便乗して、簡単に私のお祝いも。みなさんありがとうございました。ただ、今回のイベント、チームとしては完敗・惨敗。パフォーマンスの悪さは日々のチーム力から来るもの。馴れ合いは水も空気も心も腐らせる(なれ鮨とかならそれはそれで喰い方もあるだろうが…)。謙虚に受け止めよう。高校生の活躍に気圧される。みな心が強い。普段から鍛えられ、その過程をも楽しめるからだろう。常勝チームのコーチに、

  • 「勝とうとか、良いとこ見せようとか考えんでええ。笑顔を忘れたらあかんよ」とだけ言うてやったんですわ。

という秘策を聞いたのだが。このコーチが普段どれだけ厳しく選手を鍛えているかを知っているだけに、唸るしかなかった。マスメディア受けするような話形とはほど遠い真理がここにある。お互いの本気をぶつけ合うことでしか信頼関係は生まれ得ない。レディネスを見極めると共に、成長の可能性にキャップを嵌めないことも大事なのだ。
「フィクションのことば」について授業で話をしようと、荒川洋治の本(『文芸時評という感想』)を探す。自宅の書棚にも、ダイニングテーブルの下(現在ここに使用頻度の高い書籍が天板に届こうかという勢いで積まれているのだ)にも見あたらない。「そういえばこの間学校の本棚に1冊あったな、誰か英語科の予算で買ったのだろうか」と思い出し、それを使えばいいや、というわけで、出校してから研究室で探索。苦もなく発見。なんとそれは a dog-eared book of mine。私の本だったのだ。自分にあきれてハンドアウト作る気力も萎えた。
高3ライティングは、「ことわざ」フィードバック#2の配布と解説と雑談。高校時代の話と駆け出し教員時代の話。当然、日本語で雑談ですよ。ちょうど、carelessnessの話が出て来たので、接頭辞・接尾辞の戒め(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050617のような話です)をしておく。高校2年までに授業で明示的に接頭辞・接尾辞の説明を受けたり、練習をしたことのある生徒はゼロ。塾・予備校で教わった生徒が若干名。まだ被害に遭っている者は少ないようだ。この2学期後半で少し体系的に扱ってみようと思う。
高2は試験前最終日。グループ課題のまとめ。
「英詩朗読のアドバイス」をグループ分まとめたハンドアウトを配布し、若干の語句解説の後、ペアで音読練習。共感できるアドバイス3つを選び、試験の準備をするよう指示。
「Dylan Thomasの小論パラフレーズ」は、2クラス各グループから出て来たパラフレーズの英語の誤りを訂正し、誤読部分は修正した上でパラフレーズ案を示したハンドアウトを配布して、とにかく原文の英語との照合。この小論からは計8カ所が出題されることを予告、準備しておくよう指示。必死に英文を吟味していました。「パラフレーズは自分の英語で答えても良いんですか?」という質問があったので「もちろん。それが2学期のねらいです。」と返答。「でも、それがその場でうまく出来ない人のためのグループ課題であり、ハンドアウトなのです。」
3週間で3つの課題を扱ったので、実質一つの課題を1週間で仕上げている計算なのだが、こうしてまとめて提示されると圧倒されるのだろう。「○○は捨てるしかねぇ〜」などと泣き言を言うものもちらほら。泣けるときに泣いておきましょう。
明日からは中間考査。この機会に同友会の全国大会の資料整備と原稿書きを進めておかねば。
同僚のY先生から、ベネッセが開催した「私立中高一貫英語教育研究会」の資料を頂く。講師は田尻悟郎先生。250人を超える参加者を集め、前半はGTECの紹介だったそうで、技能相関などでは、現場のニーズがリスニング、速読などに集中しているのを反映してか、ライティングに関するデータの考察がほとんどないとのこと。残念である。現任校もライティングだけでも参加してくれると先生方の指導が楽になると思うのだが。
英語教育の世界ではよく「テストは授業の一環。テストでも英語の力がつくように」などというのだが、大事なことを一つ忘れている。テストも授業も「教育」の一環なのだ。
首都圏の公立高校でも、2番手、3番手の学校ほど、旧態然とした受験指導を組織的に取り入れて、進学実績を伸ばそうとしているような印象を受ける。授業の進度だけでなく、ハンドアウトや小テストまで全て横並びで指導することを頑なに守る学校もある。教育水準を均質化しようというのだろうが、どの程度効果があるのだろう?教育成果が上がっていることを検証したいのなら、英語に関して言えばGTECなどの外部テストを利用するのも一案である。少なくともライティングに関しては他のテストと比較しても「教育効果」は高いので、SELHiでこれだけ採用されているのだろう。
公立に限らず高1から高3までいつまでも文法を教えている学校もある。高3でも高1レベルの文法事項をこれでもかこれでもかと教え直す。そろそろ気付いて良い頃ではないか。我々英語教員は、文法を教えるのが下手なのだ。我々が教えているつもりになっているのは実は問題の解法パターンであって、文法ではないのはないのか。解説しているつもりでも、言ってみれば、それは使用機器が一緒に梱包されていないのにトリセツだけを読ませているようなもの。単語集を使って、範囲を指定しての小テスト。単語が終われば、熟語集を使って…。これも語彙を指導しているのではなく、テストをしているだけ。構文集を使って…。中2までに中学範囲を終え、高2までに高校範囲を終えて、高3では徹底した過去問演習。という先取り前倒しの発想を根本から疑わない限り、高校英語に「ライティング」が根付くことはないだろう。ライティングをきちんと授業の根幹に据えれば、語彙と文法が身に付き、言葉のセンスが磨かれ、書き手の視点で文章を読むことができるようになり、「意味」ではなく「英語」を読むことが可能となる、と良いことづくめですよ。生徒に自信を持ってこう言える日はいつになったらくるのだろうか。

  • あなたのことばを成長させたいなら、ライティング!

本日のBGM: 「世界を止めて」(The Collectors)