”How I wonder....”

ともすれば消化試合になりがちなテストあけの授業。
高2は既習範囲の英文を文ごと(長いチャンクごと)にセンタリングした用紙で
1. Read & Look-upからFlip & Write。
2. 続いて、日本文の空所補充サマリー完成。
3. 最後に語彙の再認テスト。
これを二つの既習のレッスン (A&B) で交互に行った。A1→B1→A2→B2→B3→A3と進むわけである。
生徒一人一人が何に気づき何を学ぶか、私にもよく分かりません。ただ、英語ができるようになるための下地はくらいは作れているだろうと。内容語substitution のドリルを組み合わせられればより強力なのだろうが。
高3は予定どおり。
途中、多少ミスの訂正をしながら一通りこなす。投野先生の分類で、2000語レベルと5000語レベルの識別を可能にし、使用頻度が高い動詞の持ち駒がいかに貧弱かを実感してもらう。カタカナ語を踏み台というか足場にしているのは、使用頻度のギャップを超える工夫のつもり。日本語では名詞や形容詞の方がカタカナ語として定着しやすいので、まずは使用頻度が低いながらも馴染みのある名詞から、そのもととなる動詞を引っ張り出す作業へ。残りの10分で「却下系」のディスコースマーカーを重点的に。
高1は週末のTV番組のスモールトークからnose →nosy [nosey] →care →caringの導入。形容詞のapproval vs. disapprovalに言及。±をイメージして新出語と既習語での関連づけに役立てる。
教科書は課の最後のパートへ。イメージを持ちながら読み進めることの重要性を繰り返す。

  • They use every single part of a reindeer.

という英文から、”every single part” って具体的にいうと?と問いかけたのだが、いきなり「五臓六腑」となって立ち往生。その前に書いてあったのはどんな内容か、主題を思い起こさせる。

  • The hides are turned into their clothes,

とあり、hidesが新出語なのでそこを仮にAとおいて、「服に変わるのはreindeerのどのpart?」と問い、「毛皮」と言う答えを得てから、辞書を引かせる。語義の補足で辞書に「獣」を記入させる。

  • Reindeer are the source of life to them.

という記述に着目、TIMの「命」のマネをして、「命の源であるreindeerをどう利用するのか?」を問い、食べるならまずreindeerをどう処理して、どう食べるのかを予想させる。ここで、”part→用途” という情報の流れになるため、受け身の必然性があることを実感させる。
てな具合にやっているので、なかなか進みませんね。
その分1段階下の『ぜったい音読』の徹底音読やサイドリーダーでの自主的読書があるという思惑ではあるのだが、どう改善したものか…。
昼休みに出版社の営業の方と話す。
いわゆる英文法の準教科書について持論を繰り返す。この方のお子さんも進学校に通う高校生で、授業がよく分からないというので、前回来た時には福田哲哉氏の『やればできる英文法』(河合出版)を薦めておいたのだが、一ヶ月少々で終え、基礎の重要性をしみじみ実感したとのこと。

  • まわりが難しい教材や過去問をやっているのを横目に、基礎に戻るのは辛かった。最初は、こんなの一週間で終わるだろうと思ったが、結構時間がかかった。

というのだが、これがきちんと出来れば、あとは「英語」を学び、「英語」を使う段階。センター対策でも、長文でも、自信を持ってどんどん進めていけるだろう。薦めた甲斐があったというもの。一つアドバイスとして、

  • 4択や並べ替え完成の後、できあがった正しい英文を「速音読」とRead & Look-upしておくこと。

を伝えておいた。
この高校、高一では文法の総合参考書を生徒に買わせて、授業では準教科書を用いて行い、高2では「ライティング」というコマで、文法や構文を扱い、高3では入試問題集を用いて結局は文法の演習をやるという具合なのだそうだ。英語の授業では、いったい何をしているのだろう?「ライティング」というコマがあるんだったらやればいいのに。中学の入門期でも、高校での再入門でも、一番英語力を伸ばせて、英語好きにさせられるのはライティングなのだから。
前任校の生徒も時々、「何か良い参考書・問題集はありませんか?」「文法をきっちりやろうと思うんですけど…」などと言ってきたが、そういう時は教師として自分の授業を反省すべき時なのだろう。授業の中で十分に「頭での理解、理屈の上での納得」も、「型・パターンでの暗記」も、「繰り返し練習による自動化、運用による体得」を保証できていないということになる。
それでもやはり、依然として『準教科書』などで一斉に文法の授業をする、というのには抵抗があるのだなぁ。授業で扱うならせめて「母体」となる『フォレスト』などの参考書自体を使う方が、英文の吟味もなされていて和訳も発展的解説もクオリティを保つことができるだろう。用いられている英語の質を考えると、粗製濫造の入試対策ものにはまず食指は動かない。自分が授業で使う用例や、授業用ハンドアウトに盛り込む英語表現にはコーパスや辞書を活用して細心の注意を払っているのに、授業外での英語学習で英語のセンスを鈍らせてしまうことは避けたいのだ。その意味で、授業が最も重要な英語学習・運用・習熟のチャンスであるという認識を常に持っていたい。ゆめゆめ授業が過去問対策に汲々としたり、その入試問題よりもクオリティの低い英語で作られた粗悪な教材での「演習」に成り下がったりしてはならないという矜持は忘れないようにしたい。
更なるreflection。例えば、高2クラスでの取り組み。高2レベルの素材を扱う以前の者に対しては、授業の外付けで「学級文庫」の活用による自学自習で補おうという思惑でスタートしたものの、徹底にはほど遠い。Q&Aなどレファレンス用や読み物・聞き物を揃えてはいるが、それでも、核になる教材は『くもん』『ぜったい音読』『組田本』『レベルアップ英文法』で3冊から4冊。そこで力をつけて「授業に戻ってくる」ことを想定しているのだが、その肝心の授業ができていない。自分の授業を振り返って、更に振り返ったら、元に向き直るのか?首が捻れるだけなのか?それを人はスパイラルな高みと見るのか?
私の授業は何処へ…。

帰宅途中『英語教育』(大修館書店)2009年1月号を入手。
今月はなんと言っても連載「日本の英語教育200年」(pp.48-49) が必読、要保存。

  • 三つ星ティーチャーの肖像 ---「昔の先生」の生き方に学ぶ ---

河村和也氏の小論である。
以前、FTCの発表で河村先生の研究の一端に触れたことがあった。英語教育史というフィールドの流儀に脱帽した覚えがある。その後、鶴見大学で廃棄処分寸前の宮田氏の蔵書を奇跡的にお引き取りになったと聞く。そんなことを思い返しながら読んだためだろうか、僅か2ページで語るために抑制したであろう想いが行間や写真、引用箇所の端々から感じられた。むすびの「時代を超えて」という文章が河村先生らしいといえるだろうか。
私も

  • 他ならぬ自分自身の姿

と向き合います。
若い世代がこれを機に、宮田幸一氏について少しでも知ることが日本の英語教育にとって大きな意味を持つことを信じて。

本日のBGM: The Seller of Stars (Donovan)