世間は祝日。
朝から県の強化合宿に合流。これで年内の県の合宿は終了。年末にいろいろな合同練習やイベントが各地で行われるが、私は不参加。
今回は1日校務で欠席したが、実りの多い合宿であった。県全体の競技人口は少ないながらも、競技スポーツとして、この競技に関わる選手・マネージャーら一人一人の意識が高まってきたことを感じられたし、私も自分のチームをしっかりと作っていく決意を新たにした。所属チームに帰ってそれぞれの現実の中で、藻掻いたり焦ったりすることもあるとは思うのだが、そんな時は今回得られた艇の加速、スピードを思い出して欲しい。昨日の自分と今日の自分との伸び代を思いきり肯定して欲しい。
さて、
「リーディング」も「ライティング」も姿を消した新指導要領(案)の高等学校編に関してmixiにトピが出来たので、議論が迷走する前に真っ先にコメントしておきました。多分今頃は、高校英語教師の悪口と大学入試の悪口と文科省の悪口あたりで賑わっていることでしょう。
まあ、「授業は英語で行うことを基本とする」という文言が明記されたことに対する反応が大きいのだろうと思います。だって、世間の人は高校の英語教師は英語ができないと思っていますから。
パブリックコメントでもありがちなのは、
- 大学入試で文法訳読が変わらない限り、高校の英語の授業を英語で行っても効果はない。
というものでしょう。これでは、先方にまったく相手にされないだけでなく、自分の後方からも弾が飛んできそうです。
現実を良く考えてみましょう。
現時点で、少子化とはいえ1学年約120万人の高校生がいるのです。そのうち、大学入試センター試験を受けるものが約50万人。リスニングテストが入試にあるといっても、残りの70万人の高校生にはほとんど余波効果はないのです。
私立大学など、センター入試が関係ないところがあるじゃないか?という方、以下の数値をご覧下さい。
- 【推薦・AO入試による大学入学者数】文部科学省大学入試室調べ(平成20年度) 258,826人(全入学者の43.4%、私大入学者の50.8%)
文法訳読不問で既に1/5近い高校生が大学に進んでいる計算です。
大学入試云々、というのであれば、場合分けをしっかりと行い、データをもとに議論を仕掛けた方が良いと思います。(最近の大学入試英語問題をまともに議論するのであれば、『英語青年』2006年4月号の特集は最低限読んでおいて欲しいと思います。)
教育困難校、進路多様校、専門学科など「大学入試で英語は必要ない」「そもそも英語が苦手だからその学校に来ている」などという生徒に対しては、
- 「必修」はこの「コミュニケーション英語I」だけなので、無理に難しいことを要求しない。まずは中学までのやり直しで「コミュニケーション英語基礎」をとって、卒業までに必修をクリアするという欲張らない作戦でいいのでは?
という答えが用意されていそうですが…。
まず、「教師の英語力」から片づけておきたいと思います。
私がこれまで同僚として働いてきた英語教師の顔を思い浮かべるに、ほぼみなさん英語で授業が出来るでしょう。世間の人が思っている以上に英語の運用力が高い英語教師は多いのです。問題は、授業でのteacher talk からrecastまで、学習者の理解可能なレベルの英語を駆使できるのか、という意味での「教師の英語力」でしょう。広島大学の松浦伸和先生は、
- 中学校の英語教師はTOEIC900点なんか要らない、400点の英語で良いから50分話し続けられるだけの力をつけよ。
という趣旨のことをおっしゃっています。中学教師がそのレベルなら、では、高校教師は?ということなのです。
次に高校段階で養成する「英語力の構成概念の妥当性」に関して。
上述のように今回の改定案では「コミュニケーション英語」と「英語表現」と「英語会話」しか科目がありません。つまり、独立した「読み」を扱う科目は学校設定科目(学校により全教科の総計が20単位まで可能)として設置しない限り公には開講できないことになります。そして、必修とされているのは「コミュニケーション英語I」の3単位(2単位に削減しても可)の科目だけなのです。
まずはある一人の高校生が、この必修科目だけを履修してその指導要領(案)に記述されている通りの知識・技能を習得するにはどういう指導を行い、どういう発達段階を経るのかをどこかで示して欲しいわけです。
それを踏まえた上で、その他の科目を履修した場合に、どのように英語力は伸張していくのか、理想と現実の間での振幅をイメージできるような枠組みを用意してカリキュラムとシラバスを組み授業に臨みたいのです。
英国のNational CurriculumのKey Stage 3がこのほど改訂されました。(こちらからファイルのダウンロードも可能です→http://curriculum.qca.org.uk/key-stages-3-and-4/subjects/modern-foreign-languages/index.aspx)
悪名高きこの国定カリキュラムでも、一応 Attainment Target というものが示されているわけです。そりゃ、もっともでしょう。学校の勉強は出来る奴もいれば出来ない奴もいるのですから。私は、この理論的枠組み自体は現実的な運用が可能なものだろうと90年代から一貫して評価しています。(問題は数値目標を求めたり、学校の序列につながるInspectionのシビアなこと、膨大なpaperworkによる教師の疲弊などでしょう。過去ログ参照→ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061221)
では、我が国の今回の指導要領(案)に従うと優秀な生徒はどのようなことが出来るようになるのか?普通の生徒はどのくらいの力をつけられるのか?また、苦手・不得意な高校生はいったいどの程度出来れば許してもらえるのか?
コミュニケーションのために文法を教え学ぶための時間も、「コミュニケーション英語」という科目の中に押し込まれるわけですから、週3時間、年間35週を確保できる理想的な学校環境でどのように年間の授業が成立するのか、イメージできるような手だて、手当をお願いします。ここで、Focus on Formなどという専門用語を持ち出して「理念」だけ語っても意味はないでしょう。私は過去数年間、日本の英語教育学者がこの用語を使うのを注目して来ましたが、年間のカリキュラムやシラバスと共に示した方はいなかったように思います。(もっとも、「進度表型シラバス準拠」「学年進行型」の英語学習にこの概念がフィットするのか、という議論が必要だと感じています。私の期待を込めた過去ログはこちら→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070917)
「コミュニケーション英語I」で示されている「読むこと」の技能に関しての記述はただ一つ。
- イ. 説明や物語などを読んで,情報や考えなどを理解したり,概要や要点をとらえたりする。また,聞き手に伝わるように音読する。
中学校の指導要領が変わり、語彙サイズの「1200語」という数値が一人歩きしているようですが、既に歩き出したとするならば、「コミ英I」は1200語+400語の計1600語で行われると言う建前なのですから、「どうすれば1600語レベルで書かれた説明文や物語文などが読めるようになるのか」という能力・技能に関わる記述が関連資料のどこにもないことが問題だと感じます。(同様にして、「コミ英III」「英語表現II」まで含めてどのようにして、「3000語」が技能に関わるのかを示すことが望まれます。)
- ウ. 聞いたり読んだりしたこと,学んだことや経験したことに基づき,情報や考えなどについて,話し合ったり意見の交換をしたりする。
- エ. 聞いたり読んだりしたこと,学んだことや経験したことに基づき,情報や考えなどについて,簡潔に書く。
などという項目は、そもそも「読める」ことが前提なのですから、イ. がクリア出来なければ「絵に描いた餅」でしょうに。
- ア事物に関する紹介や対話などを聞いて,情報や考えなどを理解したり,概要や要点をとらえたりする。
というお題目は結構です。では、「理解した」こと、「概要や要点をとらえた」ことを、教室でどのように確かめるのか?パラフレーズ?要約?(得意のオーラルサマリー?)
大変結構です。
それでは、そのパラフレーズやサマリーで生徒自身が用いる英語はいつどのように身につけ(てい)るとお考えなのか?そして、生徒のパラフレーズが不適切、不十分だった場合に、その修正・訂正をも英語で行う効率の悪さをどのように補うのか?そもそも、他の生徒が行ったパラフレーズの意味が理解できなかった生徒に、どのように意味を理解させるのか?
今一度、指摘しておきたいと思います。
この世でどんな言語を用いるにせよ、その言語のnative readersとかnative writersとかは存在しません。「読めるようになる」、「書けるようになる」のはすべて教育と学習の成果なのです。そして、「読むこと」によって得られるのは情報だけではないのだし、「読むこと」によって養われるのは「読む力」だけではないのです。
本日のBGM: Before I know (Jenka)