106回目のプロローグ

自分で思っている以上に疲れているようで、朝目を覚ますと5時を過ぎていた。びっくり。
艇の修理は、エポキシパテで隙間を埋めるところまでが終わり、硬化と乾燥を待って、サンディングでの仕上げをする予定。これを機会に、足回りと靴を新調。連休明けには届きますかね?社長!

戸田では五大学レガッタ。
今年は、Ustreamでの実況という初の試みとのことだったが、私のPC環境では繋がらず。結果だけ。対校エイト三連覇おめでとう!集団に埋もれず、紛れず、個としての加速を達成することがクルーの、チームの加速に繋がります。

午前中は、週明けの教材準備をして、昼からは湯田温泉へ。
湯に浸かりに行くわけではありません。

  • 空の下の朗読会

中原中也の生誕祭でもあります。
2009年以来の参加。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20090429)
今年は、福島県からの参加者が沢山いました。和合亮一氏 (第4回中也賞受賞者) の指導を受けたのだとか。
前回参加した時は、自作詩と拙訳詩を朗読したのですが、今回は「翻訳詩」にしようと思っていました。
選んだのは、アーサー・ウェイリーの書いた、袁枚 (えんばい) 伝からの引用。

老いた鶯はむりに囀らないほうがいい。
人も老いたら詩を書かんほうがいい。
たいていは想像力が衰え、まず
力強かったころの自分の詩をなぞるだけだ。
白楽天や陸放翁でさえ同じで
あの年まで書かんほうがよかったのだ。
ましてやこの私は、なおさらそうなんだ!
いつまでも書きつづける愚かさを
よっぽど用心せねばならん!

とはいえ、
心の動くことは今も起こるし、
口も思わず動いてしまって、
年ごとに新しい詩ができる---
まるで花が春ごとに咲くのと同じなのだ。
だから私はこう考える---もはや
老いてきた以上、老いた詩を書けばいい、
それには光景を描かないで、
己の感情を語ることだ。光景は
誰の眼にも映じるものだが、感情は
自分ひとりの財産なのだ。

「人老莫作詩」

アーサー・ウェイリー 『袁枚 十八世紀中国の詩人』 (加島祥造、古田島洋介訳、東洋文庫650、平凡社、1999年)

夭折の詩人である中也を意識しての選択です。私でさえ、中也より既に20年近く長生きしていますから。
朗読者、聴衆の中には、小学生や学生と思しき人もいましたが、参加されている方たちの多くは私よりもさらに年上の様子だったので、この詩の前半部分への反応がちょっと心配でした。
案の定、私の少し後の朗読者が、私の詩に言及して、

  • 先程読まれた、中国の詩人は、「歳をとったら詩を書かないほうがいい」とおっしゃっていましたが、私は歳をとってから、今までに見えなかったものが見えて、詩が沢山できるのです。

と反論めかした前置きで、自作の詩を読んでいました。私の読んだ詩の後半までちゃんと聞いていて欲しかったですね。
朗読会終了後、聴衆お二人から、「先程の詩を写させて欲しい」と頼まれたので、iPad miniの画面を見せ、内容というか、主題を簡単にフォローしておきました。
中也賞の選考委員には、荒川洋治氏がいます。
「決して自分自身が賢治になろうとはしない」宮沢賢治ファンにつとに厳しいことで知られる荒川氏は、かつて、『文芸時評という感想』(四月社、2005年) でこう評していました。

あるミリオンセラーを出した文学者がこれで、「いろんな」人たちと出会えたのがいちばんうれしい、とあちこちで語った。これについて以前ぼくは書いた。人気者にむらがる人は利害関係で来るのだから「一種類」である。「いろんな」ではない、と。こういうことは作家自身が自分で、気づいてほしいことがらである。その「ことば」のようすから「作品」の価値を割り引いて見る。読者はそれをしなくてはならなくなった。(「心の底」のレベル)

今日の「朗読会」での、中也の崇められ方を見たら、どう評するのでしょうか?

帰宅の前に、商店街に足を伸ばし、Scotland Martでオーナー夫妻にご挨拶。新たなスタッフも加わり、活気に溢れていただけでなく、新たな試みを次々と実現させていくオーナー夫妻の表情が本当に生き生きとしていて、刺激を受けて帰ってきました。

さて、
ここのところ、折に触れ、「英文の繋がりと纏まり」について、「呟き」やこのブログで言及し、入試や既成の教材の問題点を指摘してきました。
入試も教材も、様々な制約の下での英文執筆ですから、「完璧」とは行かないことが多いでしょう。「売れている」教材のmaterials writersといえども、ご自分の仕事に満足していないことは多かろうと思います。
最近、ネット上に積極的に批評空間を提供してくれている、「英語教育再生プロジェクト」で、「大学入試センター試験」の「リスニング問題」への「対策問題集」が連続して取り上げられていました。 (以下、3回分。まだ続くようですが…。)

http://eigokyoikusaisei.seesaa.net/archives/20130428-1.html
http://eigokyoikusaisei.seesaa.net/article/357745279.html
http://eigokyoikusaisei.seesaa.net/article/357768148.html

私も、勤務校で出版社の営業の方から見本を頂いて知っている教材でした。良いものであれば、自分の教室でも使おうと思い、その時にも、解答解説の冊子にあるスクリプトの英文を読みましたが、採用はしませんでした。その理由は、モノローグの長文英文の「繋がりと纏まり」に難があると思ったからです。
自分自身、ベネッセコーポレーションの通信講座、『東大特講リスニング』の製作に関わっていますし、自校入試の作成に関わっていますので、「リスニングスクリプト」の内容、「繋がりと纏まり」については、悩みが尽きません。今回、改めて、指摘されたスクリプトを読んでみました。
痛感したのは、次の三点、

  • 主題と題述、generalからspecificへ、cohesionとcoherenceといった、英文の繋がり、纏まりが弱すぎる、あるいは、ない。
  • その不備の多くが、原典と思しき英文を書き換えた部分で生じている。

そして、

  • この教材が学校採択教材としてかなり売れている。つまり、この教材で「リスニングのスキル」を学び、「ディクテーション」や「暗唱」などといって、スクリプトの英文を繰り返し頭・身体に刷り込ませている高校生が沢山いるのだろう。

ということです。

この教材を授業で使っている先生方にお聞きしたいことがあります。
指導するに当たって、今回、指摘があった英文をいったいどのように読んで準備しているのでしょうか?

  • 設問に大きく関わるところではないのだから、英文の小さなミスに目くじらを立てたり、一々揚げ足をとったりするのは筋違いだ。

とでもいうのでしょうか?教室で、ある生徒が書いたスピーチをもとに、他の生徒に読み聞かせる、というような「授業」の流れであれば、不備のある英文を耳にすることも多いでしょう。しかしながら、市販されたり、学校で採択されたりする類の「教材」で、そういうことが許されるでしょうか?
また、授業で「センター試験対策」として、この「設問」を生徒に聞かせる際には、このまま教材についている音声CDを聞かせているのでしょうか?リスニングの良くできる生徒ほど、パラグラフライティングのスキルが身についている生徒ほど、指摘されたと同様の「?」を思い浮かべるのではないでしょうか?
拙ブログでも、「全国縦断高校入試リスニング問題制覇の旅」と題した企画で、制約が多く、英文として「繋がり・纏まり」が整っていない英文を、書き直して授業と定期試験で使っているという、私の授業実践を記してきました。私のように、教材中の不備のある英文を修正・修復した上で、ご自分で読み上げて生徒に聞かせている先生がいらっしゃれば情報をお寄せ下さい。

誰しもミスは犯します。だからこそ、教材が世に出るまでには多くの時間をかけて準備をし、多くの人が何重にも眼を通して、ミスを未然に防ぐだけでなく、教材として世に出てからも、その「批評空間」には、風通しを良くしておかなければならないと思います。

繰り返すのはいつもこの言葉。

  • より良い英語で、より良い教材。

本日のBGM: Soho (Bert Jansch)