新しいことはいいことか?

英語教育に限らず、教育現場は常に「新しいことを取り入れる」ことを要求されてきた。「観点別評価」「絶対評価」「生きる力の養成」「総合的学習」。そして、いったんは切り捨てたかに見えたにもかかわらず、「学力低下論争」に寄り切られ・押し切られて再浮上してきた「基礎学力の徹底」。

自分自身、英語教育界に身を置き、実践や研究を発表したり、教科書や辞書を書き、全国的な規模の英語学力テストを作り、研修会などで後進の若手教員の指導などもしてきた。若いころは、とにかく自分の中に取り込めるだけ取り込もうという「できるだけ」姿勢だったが、今では、「できること」「続けられること」をしっかりと位置づける「身の丈」姿勢に変わってきている。乱暴な比喩でいわせてもらうなら、「時々、外食」もいいだろうし、「忙しいときにはコンビニ弁当」でもいいかもしれないが、「三食、食べ放題では身が持たない」のであり、「毎回、フルコースのフレンチを作っている余裕はない」のである。

授業の「ビデオ」を上映して教師の指導方法・技術、生徒の活動などを合評する形式の研究会がある。一昔(二昔?)前は、その場に生徒を集めて(つれてきて)「生」で授業をするものだったのだろうが、移動に際しての保険、休日に生徒が参加することの扱いなど、諸々の条件から現在では「ビデオ」が主流となっている。「全英連」ではいまだに「生」にこだわっているが、「語研」「英授研」「ELEC同友会」などでは「ビデオ授業」が研究会や大会でのメインイベントといっても良い。
そこで披露されるのは、たいていは「オールイングリッシュ」で進められる「生徒の活動が多様」で、「総じて上手くいった」授業である。「言語活動主体の」中学校のモデル授業に対して、高校の授業は「オールイングリッシュ」で行われていない、と批判されることも多い。声を大にして言っておきたい。果たして、いつになったら『オールイングリッシュ』であることが大きな意味を持たなくなるのだろうか?
『英語力幻想 子供が変わる英語の教え方』(アルク)の中で、著者である金森強氏はこう述べている。

  • 「先生が英語だけで行う授業は、はた目にはよく見えるかもしれません。しかし、子どもたちが本当にわかっているのか、理解できずにおいて行かれている子どもはいないのかをしっかりと見極める必要があります。」
  • 「『すべてを英語で行っている』というだけでは、よい授業・よい指導者であるとは言えないのです。特に、抽象的な概念など、場面や動作だけでは十分に伝わらないことなどは、英語だけで説明しようとしても時間がかかるだけです。」
  • 「適度の母語利用は、授業を円滑に進めるだけでなく、子どもにとって『わかる』そして『力のつく』授業をつくる可能性が高いと私は思います。」(pp.98-102「オール・イングリッシュの落とし穴」より抜粋)

私は、決して英語で授業を進める能力がなく、逃げている教師を弁護しているのではない。
今から10年前、アルクが『英語教育事典'95 』を出した。「新教科『オーラルコミュニケーション』特集号」である。指導要領の改訂による『OC』前夜の喧噪がこの号にはよく現れている。当時の文部省教科調査官・新里眞男氏、指導要領改訂の主たるメンバーであった和田稔氏などが解説提言を寄せる中、現場教師の実践を誌上で再現するという企画があった。B5でわずかに4ページの企画ではあったが、この時、まな板の上の鯉になったのが、当時、市立稲毛高校にいた渡辺信治先生(35歳)と私(30歳)であった。東京都の先生でどなたかやってもらえないかという申し出を、かなりの数の方が辞退されたらしく、若輩の私のところに回ってきたのだった。(皮肉にも多くの『実力者』が、その特集号で、効果的な指導法・評価法の『原稿』を寄せている。)この時の授業はTTということもあり、原則「オールイングリッシュ」であった。当時でさえ、私の勤務校には英語に特化したコースがあり、オールイングリッシュの授業を、という意識は高かったのではないだろうか。しかしながら今思い返すと、もっと日本語を上手く使っていれば、生徒は活動の意図を明確に理解した上でスムーズに「英語を使う」ことに集中できたのではないかと思っている。
英語を「使う」ということは必ずしも『発話』を意味しない。生徒が「黙読」しているときでも英語による情報処理は行われている可能性はあるのだし、「教師のオーラルイントロダクション」も生徒は逐次日本語に翻訳しながら聴いている可能性もある。それらを全部飲み込んだ上で、自分の授業のタスクデザインをしていく必要がある。
「全英連」などの全国大会で、会場に生徒を集め、大勢の英語教育関係者が見守る中、「50分間、アイデアジェネレーションから始まって、同輩間フィードバックを利用しながらひたすら生徒が英語のエッセイを書き上げていく」という、生徒が大勢に向かって一言も英語を発しない英語の授業、というのを誰かやってみてくれないだろうか?
『英語教育 2004年1月号』(大修館書店)で紹介された「愉快な仲間…」での実践はその意味での問いかけだった。授業を見た久保野雅史氏が「挑発的」と形容したということは、少なくとも授業を見た人にはそのメッセージは受け止められたということなのだろう。
新しくなくてもいい、もっといろいろな意味の問いかけを共有できる柔軟さ、余裕を「現場」と「教師」に取り戻したい。