「いやですねえ」

  • 池波さんは、心が赤剥けにされていくような悲鳴をあげていた。

司馬遼太郎が書いた「池波さんのこと」(『剣客商売読本』新潮文庫)の一節である。この短い原稿に、池波正太郎と司馬遼太郎の若き日の交流が顔を覗かせている。池波が少年時代に「ドンドン焼の屋台」を手伝った話など、微笑ましいエピソードもある。冒頭に引用した言葉の後、司馬はこう続ける。

  • なにしろ、当時、東京オリンピック(昭和三十九年)の準備がすすめられていて、都内は高速道路網の工事やなにやらで、掘りかえされていた。東京は、べつな都市として変わりつつあったのである。池波さんは、適応性にとぼしい小動物のように自分から消えてしまいたいとおもっている様子で、以下は重要なことだが、この人はそのころから変わらざる町としての江戸を書きはじめたのである。それはちょうど、ジョルジョ・シムノンが『メグレ警視』でパリを描きつづけたようにして、この人の江戸を書きはじめた。この展開が始まるのは、昭和四十三年開始の『鬼平犯科帳』からである。

冬場の本業は日曜日がオフなので、朝から吉右衛門、続いて、加藤剛を見る。民放にチャンネルを回したら、教育再生会議の面々が田原総一郎の番組に出ていた。批評・批判するには、話を聞かなければ、と思い見ていたのだが、「この人たちは、そうやって何を作り上げたいというのだろうか?」という違和感だけが強まった。往々にして「教育は当事者にしかわからないという隠れ蓑で教師が怠けてきた」という見方が世間に流布しているが、この教育再生会議にしろ、中教審にしろ当事者にしかわからないことだらけである点は同じである。
たとえば杉並区立和田中の校長、藤原和博氏の教育論。この人については、このブログでも以前コメントしたが、彼のやっていることを「教育」再生だとは思えないのだ(この人自身は、「再生会議」の委員ではないのだが)。当事者ではないのでこの人の学校で何がどう変わっているのか、正直なところよくわからない。以下、和田中のサイトにあった情報をもとにした私の理解と疑問を。

  • 「英語」については、2年生で試験的に始まっている週9時間授業「英語Aコース」(3時間が通常授業、1時間は選択、2時間が放課後の課外授業、土曜日にさらに3時間の特別授業という私立にもない英検準2級取得コースを上智大学の先生と共同開発)を毎年用意します。18年度からは英語検定協会と提携して、ネットも駆使した本格的なカリキュラムの開発に入ります。
  • 英検協会と提携し英検準2級(高校2年級)や3級取得を目指す「英語A(アドベンチャー)コース」を設定。希望者に1年の冬学期から、私立を超える週8時間の英語学習を可能に。
  • すでに全国の教育界で有名になっている和田中地域本部主催の「土曜日寺子屋(ドテラ)」には教員を目指す有望な大学生が毎週土曜日和田中の生徒とともに切磋琢磨しており、このうち何名かは杉並区が創設する「杉並師範館」(杉並区が独自に小学校の先生を養成する塾で19年度から杉並区の小学校の教員に区独自の予算で採用されることが約束される)への入塾を希望しています。
  • また、ドテラの学生ボランティアから数名のインターンが教員を助け、年間を通じて教育実習しながら授業フォローに入ります。

こういったことを、公立中学校の教育の宣伝に使って良いものなのだろうか?
まず、英語に関しては、これをひとくくりに「授業」と呼んではいけないだろう。決して、その講座を希望している生徒が学校の授業を週8時間とか9時間受けているわけではないのである。いってみれば、授業は必修3時間+選択1時間の計4時間で、放課後に学校の外の塾に行く代わりに2時間指導者が来てくれ、さらに休日であるはずの土曜日にも3時間指導者が来て英検対策をしてくれているのである。選択を含めた4時間以外は、全て課外で行っているので、これは授業の成果ではないし、この学校の教師が行っている指導ではない。当然、勤務日ではない土曜日に、教員に勤務を命ずるには、その代休措置などさまざまな制度上の制約があるので、英検協会から外部講師を招聘しているわけである。民間活力の導入、といえば聞こえは良いが、その中学校の教師の指導ではない「他人の褌」の成果である。例えでいえば、「体育の授業で1年間通じて野球をするけれども、希望者は部活動で、外部から優れた指導者を招聘し、徹底的に鍛えてもらえるので、東京都の大会でも私立の有名校と互角以上に戦うことが出来る」といっているのと同じことなのだろう。その特別指導を希望した生徒の英語力が高まるのは結構である。では、普段の必修週3時間の授業では、その「特別指導」を受けていない生徒たちはどのように英語学習・英語活動に取り組んでいるのか?そこをレポートしてくれないと「当事者ではない」私には評価のしようがない。
ボランティアにしたところで、「将来教員として採用してあげるかもしれませんよ」というニンジンをちらつかせて、教員志望の学生など若年労働力を無給で供給させている、ということになりはしないか?英語のボランティア希望者にはTOEICのスコアを申告させている。ボランティアとしての「志」よりも、本人の「英語力」で「選別」がなされているわけである。
校長は、この学校は「公立」でも「私立」でもない「志立」中学なのだ、などと意気軒昂なのだが、なんのことはない、能力と意欲のあるものにどんどんプラスの学習機会を与える、「格差」中に過ぎないのではないのか?
結局、私立を「超える」というわかりやすいバナーを振っているだけで、「超えてどうするのか?」ということが見えてこない。本当に良い教育を生徒と共に作りあげているなら、本当に生徒も教師もself-esteemを高めることに成功しているのなら、「超える」ことをことさら意識しないだろう。教育とはそういうものなのだから。和田中では、この校長に変わってから勤務する教師に「肖像権」は認めないのだという。メディアへの露出がこの学校の経営戦略では生命線なのだからそれはそれでいいだろう。だったら、今日のテレビ番組にも、校長ではなく、教員を数名呼んで、スタジオで「この学校の改革は、こんなに効果があるのですよ!」と訴えて欲しかった。和田中の英語の先生(または、お知り合いの方)もしこれをお読みになっていたら、「当事者として」メールを下さい。
司馬の「池波さんのこと」はこのように結ばれている。

  • 晩年の池波さんの町への興味がパリに移った。当然なことで、東京も京大阪も、この町好きな人にとって違ってしまった以上、町らしい町といえば、パリへゆくしかなかったにちがいない。パリは不変を志す町だから、その通りを歩いて、右へまがって左をみれば、かならずなじみの店がある。すると、その店の角をも一つ右にまがりさえすればドンドン焼の屋台が出ていて、うちわを持って火をおこしている甲斐甲斐しい正ちゃんに出くわさないとも限らないのである。

本日のBGM: not so much to be loved as to love (Jonathan Richman)