浜省で内省

相変わらず、日本の英語教師は受難続きである。
最近twitterでも、

  • 「英語ができなくても飯が食える唯一の英語関係の仕事が中学高校の英語教員って,おかしくないですか。」

と叩く人がいた。
英語教師の英語力をTOEICなど「今風の」試験の成績で図ることは今に始まったわけではない。
このブログの過去ログでも、すでに5年も前に、言及している。
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050805
私は、最近では、このような議論には関わらないようにしてきたのだが、相変わらず「紋切り型」の応酬になって、突き抜ける予感がないまま、議論で疲弊してしまうような気配があったので少し書いておくことにした次第。(TOEICに関して、私個人のスコアは、左のアンテナからプロフィールに入っていただくと分かります。)
まず、議論で用いるデータの信憑性、妥当性の検証を。
twitterで息巻いていた人が、持ち出していた「数値」とやらは、

  • TOEICの点数は,公開テストから推測すると,平均して中学教員が560点,高校教員が620点前後。

「推測」とあるのだが、どのような一部の事実をもとに、全体像を推測しているのだろうか。試験の実施母体が公表しているデータなのだとすれば、いつのどの試験のデータを元に言っているのだろうか?私も調べたことがあるが、「教育」というカテゴリーで受験者のスコアを示しているのは良く見るが、「英語教師」とか「高校英語教師」「中学英語教師」というカテゴリーでの集計を実施母体が出しているのだろうか?気になったので、ネット上でちょっと調べると、こんなデータをあげているブログがヒットした。
http://kaigi.edublog.jp/AB1D0523/
この数字は、先ほどのスコアとずいぶん開きがある。この数値が何に基づくデータなのか、リンクもなく、データのDLファイルもないのでよくわからない。それでも、集計するカテゴリーはその教員の属する「学校種」であって、「担当教科」ではないのだと思う。教科として英語を教えている教員以外の受験者は確かに少ないだろうが、0でもないだろう。ということで、まずは、データを持ち出すなら、出典というか、オリジナルを明示した上で正確なものを、というのが議論の前提。
その点を踏まえた上で、「英語教師の英語力が低い」という命題で議論を進める際に、教師側からあげられる紋切り型の反論としては、

  • 全員が受験しているわけではない。一部の教師の得点で全体を語り、批判するのはいかがなものか。
  • ちゃんと高得点をとっている教師もいるし、英語力があっても受験しない教師だっている。

というもの、この論理では自分の首を絞めることがあるので気をつけたい。例えば、「全国一斉学力テスト」の実施に当たり、抽出ではなく全数で実施することに批判をしていた教師は、特に。
「受験者が全員ではない、一部である」というときに、その一部が何を代表しているのかをこそ議論しておくべし。その平均のスコアが「一部の意欲ある英語教師」を代表しているのであれば、全体はさらに低いという推論を許すことになるだろうし、一部の受験だけではダメ、「全数実施」せよ、という世論を許すことにもなろう。

次に、ネット上で批判的な意見を述べている人が、「日本の英語教師、英語力無さ過ぎ〜。NASAスペースシャトル級!!」と教員を叩くことが目的なのか、教員を叱咤激励するという暖かい眼差しの裏返しで「喝」なのか、それとも、教師の英語力を高めるための施策・政策を提言することが目的なのか、よくわからない。その議論、さらには個々の意見のゴールを踏まえた上で議論を進めることが肝要かと。英語教育だけではなく、教育全般を論ずる際も、教師を叩くルサンチマン以外の何も残らない議論が多いという印象を受ける。現状で、外部試験で測定できる類の英語力の欠如が、学校英語教育の成果が上がらないことを全て説明できるのか、という部分を冷静に考察している意見は少ない。自分の経験を普遍化してネガティブキャンペーンを展開する人もいれば、学校教育で自分が受けた英語教育に対する恨み辛みを、卒業後に「独学で」英語をモノにした、と吹聴することで浄化しているかのような意見も見られる。世間では、それだけ「教師」というものを貶めたい何かが根強く残っているのだ、ということを教師側は受け止めておく必要がある。

私の恩師である、W先生は『学校英語を批判する前に読む本』というものを生前企画していたらしい。自前の考察、地に足の着いた論考というDNAを受け継ぎたいと切実に思う。

  • 現状での、中高の英語教員が使い物にならないと思うのであれば、自分が中高現場に飛び込んでいってその世界を根底から変えてみればよいではないか。自分が主となって新たな組織を作らずとも、既にある学会や研究会のスタッフとして志を等しくする人と手を結べばいいではないか。大学や大学院の教員養成課程を自ら担当して、優秀な卒業生を教育現場に送り出せばいいではないか。英語の教科書が世界水準で評価した時にあまりにお粗末というのであれば、教科書の著者になればよい、または教科書会社の編集担当となり、全国にいる例外的に優秀な教員を集めて、自分の理想とする教科書を作ればよいではないか。英語の辞書も批判するだけでなく、自分で辞書を作って、全国の学校で使ってもらえばいいではないか。英語力の測定が適切に行われていないというのであれば、毎回のようにTOEICを受験して、TOEIC対策本を書いて売りさばくのではなく、TOEICのアイテムライターになればいいではないか。

私自身のことを振り返ると、東京にいる時分はそういう思いで一貫して現場で生きながら、全英連でテストを作り、英和・和英の辞書を作り、検定も非検定も教科書を書き、教材を世に問い、業界内でも糺すべきは糺し、学会・研究会の末端として働き、一方で山口の地に来てからは新たに研究会を立ち上げ、地元でのイベントを開催すると共に、時折中央に赴き、現場の先生方対象の研究会や講習会の講師を引き受けてきました。

現実問題として、また、現状打破問題として考えてみましょう。
たとえばの話し、

  • TOEICで900点以上を取得して、実社会で英語をバリバリ使って活躍している人を公立の中高の英語教師として働かせる。

ということがどの程度現実的なのでしょうか?世間の人はどのように考えているのでしょうか?
英語に堪能な人材のうち、今、ことごとく世間から「役立たず」と言われている日本の英語教師がもらっている給料と同じ報酬で、教科指導以外に担っている諸々の仕事も全部引き受けてまで、中高生に英語を教えたいという人はどのくらいいるでしょうか?
もし、日本の英語教育を変えるためには「私がやらずんばなるまい」と思ったのなら、ペイするとかしないとか、世間から後ろ指をさされるとか、そういうマイナス要素を乗り越えて、一緒に現場で生きていきましょう。私はそういう人とは手を繋げると思います。

英語教師にプロとして自覚を持たせ、英語力を向上させるために研鑽を積めというのは正論。でも、それ以上に大事なのは、大学の学部4年間、さらには、大学院での数年間、そして職に就いてからも、プロとして足る英語力を身につけるために努力を惜しまずに、英語教師になりたい、英語教育のプロになりたいと思えるだけの「英語教師」、もっと言えば「教師」という職業のイメージアップ戦略を国を挙げて展開し、世論を喚起することでしょう。

ごく最近、文科省の政策で、小学校の学級定数を減らし、教員の大幅増加を図る、という報道がなされたのだが、あまりにご都合主義と言わざるを得ない。団塊の世代が定年を迎える時期は分かっていたはずなのだから、そのタイミングを見越して、計画的・段階的に教員の増員を図ることなど容易だったはずである。にもかかわらず、そのタイミングでは政策として世に問うことなく、手遅れになる寸前で後手後手の政策を出しているに過ぎない、という印象を拭えない。そして、そのような政策が実施されたとして、今、小学校の教員になろうという、世間で言う「有能な」人材はどのくらいいるのだろう?
現時点でも、公立・私立を問わず、専任のみでまかなえている学校は多くないのである。専任以外の、常勤の講師、非常勤の講師、臨時任用の講師などの献身的な努力で、かろうじて回っている学校現場の実情・実態をまずは観察してみて欲しいものである。
話が少し逸れました。
千歩くらい譲って、TOEICを教員の英語力の指標として使うことにしましょう。
教師のTOEICスコアの低さが気になり批判したい人に対しての助言をひとつ。昨年度まででしたか、全国では英語教師の悉皆研修が行われていたわけです。その悉皆研修の、研修前後でどの程度の英語力アップが見られたのか?まずはお住まいの近くの自治体に、住民として納税者として正当な情報公開請求をしてはいかがでしょうか?やみくもにtweetするよりは芳しい答えが返ってくるような気がしますよ。
英語教師は、私自身も含めて「英語教育界」という閉じた世界の中で内向きの議論をして安心している場合ではなくて、教育界であれば、英語という教科を越えた立場の人を引っ張り出してきて、真っ当な言語教育政策について語らせる努力を今からでもするべきでしょう。さらには、大メディアの世論形成の思惑に巻き込まれるのでもなく、教育界を越えて、外海、外界の人たちを積極的に議論に巻き込むこと、そういった「外の世界」の人たちに、英語教育の応援団、サポーターを作ることにもっとエネルギーを集めることが必要なのではないでしょうか。
私が、英語教育はもういいや、と思ってこの地に来たのに、「山口県英語教育フォーラム」なぞを立ち上げたのは、そこに繋がるかもしれない第一歩でもあります。
さて、
私の実作である授業は、というと、高3は、『いいずな』のユニットを一つ取り上げ、音読と精読。日本語で解説です。肝となる英文やフレーズをとりあげパラフレーズと要約。解説の箇条書きの日本語をもとに、英文の復元などなど。
高1のオーラルは「今月の歌」。Carole King & 元ちとせ。歌の世界を生きているか?歌詞の内容、主題・メッセージはかなり心許ない理解で、日本語の歌でも似たようなモノなのか不安になった。
高2は、『やれでき』の準動詞の項目を解説。その後、『茅ヶ崎・0』を使ってdictogloss。投げ込みでこの教材を使うのは、語彙と構文をコントロールして書かれた良質の英文を、究極とも言える朗読者の吹き込みで聞けるから。
過去ログでも指摘しているが、英語教育業界が、教材としての「英文ライター」を育てる努力を怠ってきたツケに気がついたのなら、今からでも遅くありません、まずは、すでに世に出た良質の教材を復刊再発することから始めましょう。

  • ケネス・サガワ、古谷千里『ケネスのすらすら [うきうき、などなど] 英文速読シリーズ』 (聖文社)
  • 『シェイクスピア名作ダイジェスト』 (日本英語教育協会)
  • 『英語で楽しむ世界名作シリーズ』 (日本英語教育協会)
  • 『やさしい英語で楽しむ世界名作シリーズ』 (日本英語教育協会)
  • パトリック・フォス、酒巻パレット有里『英会話やっぱり論理力』 (講談社インターナショナル)

などの教材は、みな、日本人学習者を想定して英語の語彙や構文をコントロールした教材です。このような優れた教材が絶版になっているまま、屋上奥を重ねるように、新たな教材が市場に出回っているのは残念です。英語科の準備室などの書庫に宝が眠っていないか、埋もれていないか、見てみて下さい。

本日は本業オフ。放課後は職員会議を経て浜省を聴いてから帰宅。
全日本選手権の記録を眺める。
夕飯は先日の残りを冷凍しておいた餃子。
夏バテの抑止くらいにはなるかね。
A書店で買い直した、

  • デニス・キーン、松浪有『英文法の問題点---英語の感覚』 (研究社, 1969年)

を読み直して時制と助動詞の整理。これは大学の1年生の時のテキストだった。担当はH先生。厳しかったね。今思うと有り難いことだけれど。

本日のBGM: 丘の上の愛 (浜田省吾)