frank, sincere and direct

今日は高1の日。
進学クラスはオーラルと英語 Iと。
オーラルは今月の歌、The Table。歌詞確定後の「気づき」も済んだので、パラフレーズへ。今回は次の10語。

  • sturdy / wild / heart / treat / temper / flare / clench / burn / dignity / coffin

歌詞の文脈に合うよう、品詞に注意を払っての作業。
英英辞典を全員が持っているわけではないので、英和と和英を駆使して、さらには反意語・対義語を援用して「英語的に」考える練習。wildを例にとって、辞書の用例・コロケーションを見て、その語の全体像・輪郭線・肌触りを探る。

  • a wild (= stormy) night / the wild (= troubled) sea / wild (= not controlled ; untamed) animals

など訳語に引きずられずに、「というのはどういうことか?」「日本語では普通何と言っているか?」の両方から語義に迫る試み、と言えよう。
途中で、temper(s) の解説の際、anger/ rage / furyと来て、ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』のテーマ曲を歌った辺りで暫し脱線。この映画を見た子どもの頃は英語が全く分からなかったのに、未だに全部そらで歌えるのが凄いと思う。まあ、clenchで落としどころが見つかったので安堵。
ダブルミーニングなども絡んでくるので、高1には完璧な理解など求めようもなく、徐々に理解が深まればそれでよし。繰り返しに堪える「歌」の良さを最大限利用しようと思う。

英語 I の方は、テキストのサマリー。こちらはグループ作業。
作業の間、シングル盤のテイクを聴かせる。The London Community Gospel Choirをフィーチャーしたバージョン。YouTubeで見られる99年のライブなどはこの感じだなぁ。ヒートンは実は、アルバム収録のノーマン・クック的な(当時の)今風のアレンジが嫌いだったんじゃ?と邪推もしたくなる。
今日の普通科は、3学期になって一番集中していた感じ。基本の確認が、次への一歩に繋がる実感を持てた生徒もかなりいたのではないかと思う。私自身何が功を奏したのかは全く分からず。まあ、上手くいくときはそんなモノです。
帰りのSHRを担任の代打。週末から週明けにかけて、いろんな運動部の中国大会があるので、代打が増えそう。副担も忙しいのよ。
郵便局に行って、ヤフオクの振り込み。帰りがけに、『英語教育』と『新英語教育』の2月号を入手。
じっくり読み込む時間がないのだが、『英語教育』のFORUMでの安井稔氏の投稿(「『コミュニケーション』に思う」)は考えさせられる。端折ってしまっては意味がないので、引用はしない。是非読まれたし。
来月のキング牧師に備えて教材研究をしていて、こんな記事に出会った。

  • ただ、その場合も、すぐに「では好きなタイトルでスピーチを書いてください」と言われたところで生徒にとっては無理な話である。/小学校時代に作文という時間があって、作文の書き方を教わらないまま、40〜50分間ただ机に座って書かされたことを思い出してしまう。今となってみれば、あれは単なる「躾教育」(一定時間静かにじっとしていられるか)であり、穿った見方をすれば教師が楽をしたかっただけではないかとも思ってしまう。/英語教員は同じことをしてはならない。(松本茂「スピーチ指導を成功させるために」、『現代英語教育』1995年10月号、研究社出版)

コミュニケーション英語推進派の代表とも言うべき松本氏の随分前の論文だが、国語教育の実践を自分の受けた教育のレベルでしか語っていないのでは、世間の(英語)教育批判と何ら変わりがない。英語教師として経験を積んだ足場から、「国語教員がどんな指導をしているのか」を積極的に知る努力こそが必要なのではないか?これから既に12年が経過しているが、日本の公教育で、国語科・英語科がそれぞれお互いの実践や知見を共有し高め合ってくることができたかを自問したい。
大御所では、慶應大の大津先生は「言語力」というキーワードでかねてから主張を続けている。一方、国語教育の成果をしっかりと捉え直し、謙虚にかつcriticalに学びつつも、今風の英語の授業としてきちんと成立させている山岡大基先生のような世代も活躍している。現場の一人一人の姿勢・視点・実践の方が先を行っているのかもしれない、と英語教育学者も考えてみてはどうだろう。

『新英語教育』は映画の特集。申し訳ないが、読み飛ばし。改善協の話題へ。「どうする?小学校の英語」。穏やかな見開き2ページ。このトピックをメジャーなメディアにどう載せるかをもっと考えなければ。
折しも、今日、中教審の新指導要領に関する答申が出たばかり。
小学校英語推進派は、「必修化」の公認と受け取るのだろうが、問題は、その小学校英語を担当する教師をどうするかなのだ。答申でも、人と金、さらには研修や教員養成に関してほとんど具体策の裏付けはない。
和歌山大の江利川先生の著作などを読むと、戦前・戦中あたりの時局でさえ、当時の英語教育はかなり高いレベルで行われていたことが分かる。乱暴な一般化だが、戦後の学制改革、民主化の流れで、英語教育は一気に大衆化し、生徒数の急増に教員の数も質も追いつかず、新制中学・高等学校で成果を上げることは適わなかった。教員養成、教員研修に資する目的で、これまでの成果を発展継承し、英語教育関係の書籍が次々とシリーズ化されたにも拘わらずである。
今、小学校英語の担当者問題を考えるとき、韓国など東アジアの政策を隣の芝のように羨んだり焦ったりするのではなく、日本における英語教育大衆化の何が問題だったのか、を振り返ることに意味があるのだと思う。
過去ログの繰り返しになるが、小学校の教師は教育者として、教師としての資質・力量・責任を他のどの校種よりも問われる。生徒理解・生徒指導・教室運営など、その労力やストレスたるや尋常ではない。そういう苦労は担任に引き受けさせておいて、英語の指導は地域に住む英語の能力に長け資格を持った人材に任せなさい、などという発言を許す英語教育界では、明日はない。

本日のBGM: HONEST(大江千里)