Live and let live.

物置の中から、Business VIEW 別冊の『ザ・ディベート II: Historic TV Debate Kennedy vs. Nixon』(グロビュー社、1981年)の本が出て来た。高3の今くらいの時期によく聞いていた。懐かしい。カセットテープもどこかにあるはずなのだが…。
TVをつければ某大臣の失言を取り上げ、国会の場で執拗なことばの応酬が続いている映像・音声が溢れ出す。予算も、法案も本来の職務である審議では過半数を占める与党を食い止める対抗勢力とはなり得ない野党が、ここぞとばかりに、それこそ「鬼の首をとった気で」その大臣の心根を糺している。辞任にしろ罷免にしろ、その後で何が良くなり、国民の生活に安心がもたらされるというのか?鬼の首どころか「『取れぬ』狸の皮算用」にしか見えない。

  • 今ほとんどの人は、誰かがしゃべっていることばは文章として頭の中に入ればいい、知識の冷蔵庫に入れておけばいいと思うようになっています。人間に「話しかけている」という、その人の心身働きかけ全体がことばなのだとは考えていません。でも本来、「からだ」と「ことば」というふうに分けられるものではない。「からだ」と言おうが「ことば」と言おうが、それは一人の生きた存在の、ある局面をどう呼ぶかという問題にすぎず、ことばが生きているときは、からだも生きているのです。(竹内敏晴『あたらしい教科書 3 ことば』(pp. 82-83、プチグラパブリッシング))

小学校の英語科必修化の前に、母語(母国語・国語・言語基礎)教育を充実させよ、と主張する人たちも多い。ただ、その際気になるのは、米国であれ、ドイツであれ、フランスであれ、フィンランドであれ「欧米」での言語教育をその理論的基盤において、母語教育を設計し直していることである。とりわけ「論理」と「技術」を重視する傾向が強い。戦後の「単元学習」も、もともと米国での言語教育に触発されたものであるのだが、今では「克服すべき古い指導実践・理論」と捉えられているような印象を受ける。英語教育の世界でも、50年前とは言わず、10年、20年前でさえ、実践の存在をよく知りもしないで批判をする人は多いのだが、「国語」教育の世界でも同じことが言えるようである。国語教師にとってもそうなのだとしたら、英語教師・外国語教師はもっと「国語」教育を誤解・曲解しているかも知れないし、無理解かも知れない。ことばの教師であれば、『大村はま 国語教室の実際 上・下』(渓水社、2005年)に一度は目を通しておくのがよいと信ずる。古い、新しいの問題ではない。「日本の国語教育は文学偏重だ」「共感を強要したり印象を競うことで、結局は個人・個性が尊重されない」などという前に、もっと国内の実践から学ぼう。「どうして、日本ではこのような実践が広く行われてこなかったのか」と言う前に!
大著なので英語教師が個人で買うのは大変かもしれないが、勤務校の国語科の先生に聞けば所蔵されている人も多いだろうし、国語科の研究室や図書館にはあるかも知れない。法則化運動・TOSSのように何でも追試をすればいいというものではないだろうが、あまりにも先人の実践を知らないまま、批判・非難するのは賢明ではない。自戒を込めて言っておきたい。以下、大村氏が記している、単元学習の目標に十分すぎるほど「論理」や「技術」は盛り込まれていることがわかるだろう。(上巻、p. 167)

目標
この単元の学習で、ぜひ気づいてほしい、身につけたいこと。
(1) 調べたこと、わかったことを分かち合い、みんなのものにするため(共同の仕事をする資格を得るため)の技術を身につけること。よくわかる話し方、わかりやすい文章、役に立つ記録、資料の扱いなど。
(2) 調べていくと、その先調べるべきことが、見えてくるものであることを体得すること。
(3) 発見しながら読んでいく読書の世界を経験すること。
(4) おもしろいということを見つめ直すこと。おもしろそうでなくても、必要なものは読む。そこで、おもしろさに出会う読書の世界を経験すること。
(5) いろいろの読み方を駆使する、読みながら読み方を選び、変えていくこと。(以下略)
では、大村実践は技術論に過ぎないものなのか?だれも頷かないだろう。

  • だれが口べたで、口がおもいという子と、話すことが不得意だという子と。そういうことを、先ほどのお話のように、アンケートなどにとるものではないですよ。先生がつかまない以上はわかりませんから。その話しことばがまずいなと思う子どもが、安心した顔をしていないと困るんです、話し合いのときに。あせって、何か言わなくちゃ、言わなくちゃという気持ちでドキドキしている。何か言わなくちゃ、言わなくちゃと思う気持ちなどというのは、全然話しことばを育てないのです。(上巻、p. 14)
  • 一人一人、学級において、かけがえのない位置を示させ、優劣のこだわりから解放するくふう。生徒は伸びたい心が強いので、また、未来への夢も大きいので、それだけ優劣にこだわりやすい。そのこだわりから解放するには、優劣を忘れている時間を作ることであると思う。(中略)真に、自分が、かけがえのない、この一冊の本の紹介者であること、責任者であること、この自覚が大切であると思う。(下巻、p. 712)

ことばを育てるためには、これだけの覚悟が必要なのである。どこかで安心できなければ没入できないのは生徒も教師も同じ。教育問題を語る際に、生徒、子どもの安心をのみ声高に叫び、教師の安心をことごとくどこかに追いやったツケを今、払っていると考えてみてはどうだろうか。このままでは誰も救われない。
本日のBGM: Feet Don't Fail Me Now (XTC)
おまけ
本日の晩酌:梅の宿・純米吟醸・生もと・古式木桶もと仕込み/燗