”I’ve been such a fool.”

採点の後の祭りも終焉。
気がついたら、ジョン・レノンの命日に彼やビートルズの曲を全く聴いていなかった。いいことだと思う。彼の音楽は「偲ぶ」ものではないのだから。

成績処理は平常点の調整を残すのみ。
グランプリファイナルの女子は浅田真央選手の優勝。
ファンとして復活劇を喜ぶ一方で、演技構成や曲の選定、振り付けなど、本当にこれで良かったのだろうかと「?」も浮かんでくる。バンクーバーまでタラソワコーチと一緒に目指していた「重厚な芸術表現」の路線は、今これからの年齢の浅田選手にこそ、挑戦し甲斐のある課題だったのではないのか、という思いは消えない。ドルトムントでのキム・ヨナ選手のスコアと単純な比較は出来ないのだが、オープニングの2+が3+になる可能性と、3回転+3回転とが入る可能性とは天秤にはかからないのだろうなぁ…。
男子は、SPのミスを、粘りのフリーでなんとかカバーした羽生選手が銀メダル。羽生選手は2つ目の4回転がパンクしたからではないだろうが、後半のジャンプ、ステップ、スピンとNHK杯のような綻びは見せずに滑りきった。1戦ごとに伸びていく時期なのだろう。
金メダルは高橋選手に。ショートでの貯金があったからか、オープニングの4回転で転倒のミスがあっても焦らず自分の演技に集中し、2つ目の4回転をきっちりコンボで決めてきた。その代わりか、やや後半足に来たかな、という動きが見られたが、綻びを拡げなかったのは流石に高橋選手。
日本人選手として初のGPファイナル優勝なのだが、「悲願」という形容は相応しくないだろう。高橋選手は2010年の世界選手権・トリノ大会のチャンピオンなのだから、その形容は、五輪の金メダルを抱いた時に取っておきましょう。
スポーツ繋がりでもう一つのニュースを。
女子のバスケットボールWリーグがレギュラーシーズンを終えました。
私が応援している、シャンソンV-Magicは4位。惜しい試合がいくつもありました。ニュースというのは順位ではありません。私は、「呟き」からの流れで1週間遅れで知りました。

  • 中川聴乃選手がコートに立ちました。

膝の故障、手術、そしてリハビリと長いブランクの後の復帰。まだ出場時間は短いようですが、コートで中川選手が見られることをファンの一人として素直に喜びたいと思います。天皇杯、プレーオフとこの後の過酷な試合ではまだまだ対応出来ないかも知れませんが、あの颯爽とした男前なプレーがコートに帰ってくる日も遠くはないと思います。富士通の長岡萌映子選手とのマッチアップなんか、ファンとしては見てみたいんですけどね。そんな夢想家は私だけではないと思います。
さて、
「呟き」で連投しようかとも思った話題ですが、字数制限が面倒だったので、こちらで。

  • 英語学習、英語授業の成果

に関して。
学校教育は学年制で年度制をとっている以上、どんな名人、達人がどんなに上手く授業をしたところで、全ての人に同じタイミングで同じだけの「実り」を保証することは不可能だと思います。英語の授業で私が生徒に常々言っているのは、

楽に息が出来る水域や水深から始めて続けていれば、そのうちにそれなりに泳ぎ回れるようになる。ただし、『そのうち』も『それなり』もAさんとBさんとCさんでは全く違うんです。そのことを踏まえて、『そのうち』の時間短縮とか、『それなり』のレベルアップなどを画策するのは、全て『自分のこと』であって、他人との競争ではありません。ほかの人と比べて、早いとか遅いとか、深いとか浅いとか、を気に病むことから不幸は始まるのです。

私が国語教育での大村はまさんらの単元学習実践に惹かれるのは、「個々の優劣を越えたところでの教室の学び」をどう体現するか、そして「努力が報われないことで凹んだりせず、学びに浸る」とでもいうような姿勢が感じられるところです。

英語も「教科」としてみた場合には「数学」とか「理科」などと同じ枠組みで「勉強」するもの、になるのでしょうが、英語が厄介なのは、知識だけではなく、技能が求められ、しかもその技能の多くは問題演習などの「解法」だけでは決して身につかないものであること。例えば、4技能を伸ばそうとするとき、その下位技能を伸ばすにも、多くの練習では「相手」が必要になることが多いでしょう。これは、他の「教科・科目」では体育や音楽などを除けばほとんど見られないのではないかと思います。今、巷の教育界では「協同学習」「学び合い」「学びの共同体」などといった「新たな」動きが見られるようですが、「教科性」というものを考慮に入れる時、英語の学習では、そもそも多くの局面で「共同体」の存在を前提としているのですから、「英語」を求めていて、「英語」をやっていれば、そこには「共同体」が出来ているはずでしょう。

高校だと、進学校と呼ばれる類の学校には「理数科」という課程があったりします。そのような、高度な教科学習を目指すようなところでは、「解法パターンの暗記」だけでは行き詰まってしまうので、それを越える本質的な「学び」が本来は志向・希求されていると思うのですが、現実には、センター試験で得点をとるところまでは「解法パターンの暗記」で何とかなってしまう「お受験文化の申し子」が多数存在し、「進学実績」を上げているのではないでしょうか。
私が使う比喩だと、

  • センサーの精度や、反応速度の速さ、演算処理の安定、というよりは「最新の地図が入っていて、情報量が多い」ことによって、機能がより高くなっているカーナビ」に依存するドライバー

のような学習者モデルです。
私が気にしているのは、二点。ドライバーの運転技術が高まっているとは限らないことが一つ。次に、そのような最新の地図がインストールされているカーナビが購入できることが前提となっていることです。
そして、そのようなカーナビの地図をどんどん新しくしていくような取り組みで「テスト対策」まではなんとかできてしまう人たちが、「英語」の学習をどのようにこなしているのか、を考えてみることで初めて、私が東京のようなお受験文化の影響を色濃く受ける土地で教師をやっていて一番驚いた次のような「受験生」のメンタリティが理解できるのかな、と思っています。

直前期にやる「問題」がないと嫌なので、年度の新しい志望大学の過去問は解かずにとっておき、古い年度の過去問を解いたり、傾向が似ていて類題となる他大学の過去問や、先生に作ってもらった「予想問題」にそれまでは取り組む。

本当に理解に苦しみました。
例えば、10年分、過去問対策をやって、その志望大学の入試問題で要求される「英語力」が養成できたのに、なぜ、そこから先で「類題」を求めるのか?さらには受験産業の提供する「予想問題」のような「劣化コピー」を求めるのか?もし、そのようなものを求める必要性があるのだとしたら、それまでに問題演習の数はこなしたけれど目標としていた英語力がついていないということではないのか?とすれば、それはただ問題演習を「追加」することで解決するのだろうか?
そのような「?」に対する回答の一つとして、現在の私の英語教師としての立ち位置があり、実作があります。
英語学習に「ことばに対する畏れ」「敬虔さ」が必要ないとは言いませんが、英語学習を進めていく中で自分の英語力が高まった、英語が分かるようになった、英語が使えるようになったという喜びとか、豊かさを実感する「瞬間」が訪れないのでは、いつまでも「自分の学び」にはならないように思います。

最近、生徒に言っていることばで今日は締めくくりたいと思います。

  • 高校の同期から、「高校の時って、いっつも英語の勉強していたよね?」といわれたことがある。確かに、授業のノートも英語で書いていた時期があったし、休み時間とか、昼休みとかでも、英語の本を読んでいたりしたから、そう見えたのかも知れない。起きてから寝るまでのトータルの時間で考えれば、3時間くらい、休日だと6時間くらい英語に使っていたかも知れない。でも、問題演習とか「過去問」対策ってほとんどやっていない。では何をやっていたか?「英語」をやっていたんです。

本日のBGM: Call it what you will (Utopia)