「たかが英語教育…」

私は現在、正業(生業)で高等学校の教諭として勤務しながら、本業の指導に当たっている。平日は正業、土日祝日は本業といった案配でほぼ休みはない。
英語科の教諭としての採用であるから、教科指導は英語である。それ以外の校務は他教科で採用されている教諭と同じ。中学校は義務教育課程ではあるが、教諭は各教科で採用されている点では同じ。では、小学校は?専科という採用区分があるが、多くは全教科を受け持つことになる。
「小学校英語」に関して中教審から答申が出て、推進派がメディア、ブログなどで情報を発信しているのだが、看過できないものも多い。英語教育メディアでも、タブー視されているのか、核心部分には誰も踏み込まない。

  • ALTを全校配置するのは無理、資格を持った英語指導のできる地域の人材を登用すべし。

という意見がある。それなりの説得力を持って受け入れられているようだ。
私が看過できない、というのは、英語母語話者の講師を全ての小学校に配置するのは無理、という理由として、コストをあげていることだ。
「いや、あなたは何もわかっちゃいない。きちんとした英語の指導ができるALTを雇うのはお金がかかるんだよ。」という方に逆に尋ねたい。

  • 何故、「地域の英語の能力に長け、教える資格を持っている人材」は、英語母語話者よりも少ないコストで契約できるのか?

なぜ人件費という点では同じなのに、そのコストは抑えられるのか?「きちんとした英語の指導ができる人」には「きちんとした対価」を払うのが当然ではないのか?
全国で22,420校に配置が必要というのだが、JETプログラムでのコストが、私が公立にいた時代で生活費込みで月額約30万円。単年度更新で最長3年の契約。では、「民間の有資格者」と契約して小学校で授業を担当してもらうとどのくらいの費用になるのだろうか?これが知りたいのだ。
そもそも、小学校の教諭の初任給は?東京都の場合、初任給は大卒で23万7000円、短大卒で21万6000円(「マイナビ進学」による)。初任給と比べれば、確かに、JETの方が高額となる。専任ではなく、非常勤であれば、さらにその差は増えるだろう。では、小学校の教諭の平均年齢と昇級のベースを考えるとどうだろうか?週に1時間、1学年で4クラス、5年6年の2学年を担当すると仮定すれば、週8時間の担当。仮に週に2時間の授業でも週16時間の担当である。採用後30年勤務すると考えれば、専任で専科とするよりも、JETで月30万のコストの方が低く抑えられるのではないか?
というような試算をきっとどこかで誰かがしてくれているのだろうから、教えて欲しい。
中教審では教員養成の問題をクリアーするまでの「当面」は現職の教員の研修で、というのだが、具体的に、何も見通しが立っていない。
結局のところ、新たに小学校の専科の教員を採用するよりも、現在いる教員に英語の研修をさせて、指導に当たらせる方がコストが抑えられるということなのである。でも、本当にそうなのか?これまでに小学校の先生がやっていなかった仕事を新たに付け加えるのだから、その仕事に見合う対価が支払われるべきではないのか?それとも、英語指導をする分、これまでに行っていた校務は何かしなくてもよくなるのか?いくらなんでもそれはないだろう。
英語を教える人材が足りないので、小学校の先生達が、一生懸命研修に励んだとしよう。研修はいつ行うつもりなのか?
土日に行う?教員の休日はどう保証するのか?
夏期・冬期の休業中?夏休み冬休みとは名ばかりで、今や、一週間連続した休みを取ることさえままならないのが公立の教員である。
平日の放課後?生徒指導はどうするのか?
勤務時間はどう算出するのかは脇へ置いておくとして、研修で不在になっている間のその教員の校務は誰がカバーするのか?副担任?学年主任?校長・副校長?

小学校英語のために地域で有能な人材を活用することが可能なら、その裏返しも可能なのではないのか?
小学校での英語活動を指導することが本当に現在の日本の公教育で必要不可欠なものだとしよう。
とすれば、小学校教諭は恒久的にその責を担う必要があるはずである。であれば、小学校教諭を養成する段階で英語の指導力を身につけることと並行して、現職の小学校教諭が英語の指導力を身につけるために研修を受けている間に、生徒指導など、教科指導に関わらない「雑事」を、小学校の教育に深く携わり、一人一人の子どもの成長に尽力したいと願う有能な人材に肩代わりしてもらえばよいのではないか?
不可能な話ではないだろう。教員免許を持ちながら、それを活用していない人材は多いのだから。
では、なぜ、その有能な人材は、教員を志望していながら免許を活用していないのか?その理由は大きくわけて二つあるのではないか?
一つは、採用試験になかなか合格しないから。
もう一つは、教員よりも、社会的・経済的に魅力のある他の職種に就くことを選択するから。
この二つを解消することが先決だと、なぜ世間は思わないのだろう?そこにこそ、問題の根があるように思うのだが…。
現職の小学校教諭に、志望動機を聞いてみて欲しい。「資格を活かしたかった」などと応える人はまずいないだろう。「私はこれだけの資格・資質を持つのにこれだけ頑張ったんだから、それを活かせる仕事に就けない方がおかしい」などという人に、この職種は務まらないだろうから。英語の運用力・指導能力に長け、子供たちの成長に寄与したい、尽力したいという人が、小学校教諭の資格を取る道は現時点でも存在している。年齢制限などの制約は確かにあるが、公的に開かれた制度である。そちらの拡大が今どうなっているのかもメディアはしっかりと報じることだ。
今後、

  • 研修を積み、高度の英語運用力と指導力を兼ね備えた、小学校の学級担任として経験を持つ人材

が輩出されるとしたら、巷の英語学校や塾・予備校でも引っ張りだことなるだろう。そのような得難い人材を、小学校現場に留めておくだけの魅力が、現在の公立小学校を取り巻く環境にあるだろうか?何かあれば、教育バッシング=教員バッシングになりかねない、天に唾吐く…、ということばがむなしく響く昨今である。

  • PISA型読解力が国際比較で低位に甘んじている現状を鑑み、小学校の教室に「実践的日本語運用能力に長けた人材」を講師として招いて授業をすることになった。教員資格はないが、民間の団体で指導に資するだけの技能があることを認めているので、安心して任せて欲しい。

と聞いたら、多くの日本語母語話者は違和感を覚えるだろう。

  • 日本も、グローバルスタンダードで、来るべき訴訟社会に備えて、新たな見識を備えた弁護士を養成しなければならない。法科大学院が軌道に乗るまでは、「司法書士」に研修を受けてもらって、弁護士の足りない分をカバーしてもらおう。

といって、まともに聞いてくれる司法関係者はいないだろう。
ましてや、

  • 「小児科」「産科」の医師が足りない現状を憂い、「歯科医師」に研修を受けてもらって、足りない分をカバーしてもらう。

などという馬鹿げたことを言う人はいまい。医師法、歯科医師法それぞれに抵触してしまうのだから。
では、なぜ、「小学校英語」を始め、「英語教育」の議論は突き抜けないのか?ジレンマは尽きない。

  • 教壇に立つ、教室を受け持つ、生徒と関わる、保護者・地域の声に応える、その社会的価値を今一度、世に問う時である。

私の気概もやはり、紋切り型なのだな。
本日のBGM: されど私の人生(斉藤哲夫)