「それで 救われる気持ち」

週末は本業で、県の強化合宿。
いつも使っていた気圧・高度・温度・風速などを計測できる腕時計が、父が亡くなる前日の登山の時に、電池切れで機能停止になっていたので、どの時計を持っていこうか悩んでいたのだが、ふとその時計を見ると、何もなかったかのように全く普通に動いていた。何故?
1泊2日で、合計約10時間のミーティング&練習。高校生だけでなく、大学生も参加。東京から前五輪代表コーチの方を招いて徹底指導。国体予選を兼ねているので今回私のチームは対象外で、私だけが参加。私の前チームでもお世話になっていたが、今回コーチングの奥深さ、おもしろさをあらためて学んだ。「コーチング」というタームは今では日本語としてビジネスの世界などで盛んに聞かれるようになったが、本来は教育の世界でこそ生きる言葉のはず。今回印象に残ったのは「再現性」と「目的」。
「再現性」に関しては、以下のようなことばで高校生相手に懇切丁寧に説いていた。

  • 今日、最後に良くなったところをよくイメージして、明日朝のトレーニングのできるだけ早い段階で、同じことが表現できるように。できれば、最初の一本から、同じ感覚で。上手くできたら、それぞれが、どういうことを意識したからその表現が出来たのかを言い合うこと。そうやって確認したことを、上手くいかなくなったときに思い出して切り替えていく。同じことが繰り返し繰り返し表現できるようにすることがとっても大切。

「目的」では、大学生を対象に「あなたがコーチだったら、この選手の動きのどこをどう直すか?」とその選手のチームのメンバーに問うていく。様々な答えがでたところで、ひとこと。「この競技で一番肝心な目的に誰も触れていない」。学生たちは、このヒントではまだはっきりと認識できておらず、コーチがさらに言葉を継いでやっと理解できた模様。

  • その目的を達成するために、いろんなテクニックが必要なのであって、手段が目的になってはいけない。常に、我々にとって一番の目的を達成しよう、思いっきり表現しよう、としてくれなければコーチは仕事が出来ない。ボートを始めて2か月の高校1年生たちは、君たちほど情報が入っていないからこそ、純粋にその目的を求め続けている。それに対して、君たちは色々な所から情報を仕入れることで、枝葉の部分だけが膨らんでしまい、自分がその一番の目的を達成する邪魔をしてしまっている。

その「一番の目的」を知らしめるために久々に見せてくれたデモンストレーションでの強さと美しさに感嘆。姿勢とはかくもしなやかで強く、ダイナミックなものになりうるのか。
翻って、英語教育。その一番の目的とは?全国の教師がみな情報を仕入れることに躍起になってはいまいか?自分の目の前の生徒・学習者がその目的を達成するために何が必要なのか?「明日の授業ですぐに使えるアイデア、小技」といっても、それを何のために使うのか?「生徒中心の授業展開」とか「生徒の気づきを促す」、さらには「ハートで感じる」「コアイメージ」などといった余所からの借り物や受け売りではなく、一人一人の教師が自前の思考を継ぎ足すことが必要だろう。自分の足跡の中からしか再現するべきアイデアや小技は見つからないのではないか?「教わったように教えるな」という戒めは「教わることの否定」ではない。そうではなく、「自前で学ぶことの意義付け」とでもいうことなのだろう。我田引水ではダメなこともまた自明であろうが…。
今日の3年生の授業は先週の3年生が一コマ増えた分との交換だったらしく、拍子抜け。自分が忌引きで4日も授業を休むからいけないといえばそれまでだが、この学校の教務の仕組みがよくわからないのだなぁ…。進学クラスの授業は、基礎基本の徹底。「名詞は四角化で視覚化」「動詞の前ではとじかっこ」という手段が何を目的にしているのかを出来るだけ早い時期に体得させたい。1年生の授業は悪戦苦闘。約15分解説をして、その後プリントで問題を解いた者からチェックを受けに来る流れで少し試している。中学時代、英語が壊滅的だった生徒が少しでも自分の学習に意欲と自信を見いだすことが出来ればいいのだが。ひとつずつ、ひとりずつ。あせらず、あきらめず。
部活は自主練習の日なので、早めの帰宅。久々に音楽に身を委ねる。
今日、ベーシストの伊賀航(いが わたる;元benzo)の演奏を私が何故これほど好きなのかが解った気がした。

本日のBGM: 終わりの季節(高野寛・原田郁子; from "Tribute to Haruomi Hosono" )
本日の晩酌:雁木・純米無濾過・生原酒