『発信』は、何故強調されるのだろうか?

『英語教育 2005年9月号』はライティングに関わる特集である。タイトルは「発信させるライティング指導」。前回のライティング特集が2000年11月号だからおおよそ5年ぶりの特集である。中高一貫校の生徒でも、2000年度に入学した生徒は、早最終学年の高3である。「もっとライティング特集を!」と心の底から叫びたい気持ちである。
今回の執筆者は中学校の先生が1名、高校の先生が2名、大学の先生が4名という配分である。読後の感想と批評を。
観点は以下の2つのみに絞った。

・「発信させる」という今回の特集タイトル、テーマ設定に対して、「誰を読み手として発信するのか」が明確な実践、研究、指導法の提示であるか?
・「ストラテジー」改善の指導に偏るのではなく、書く課題のテーマ・トピックに関する語彙・コロケーションをどのように授業内外で指導しているかが明確であるか?

西山正一米子市立福米中学校教諭は、田尻悟郎氏の実践を受け、小規模校ならではの利点を生かして作文指導を報告している。この西山実践での「読み手」は教師と教室内の他の生徒であろう。では、文集や作品集などの完成体に至までの小作文での読み手はどう設定しているのだろうか?読み手が現実に存在しなくても、英語の力がつくことを生徒はどのように知らされ、活動に取り組んでいるのだろうか?

富岡龍明鹿児島大学教授は、「自分の書く英文は、日本語、日本人の精神構造、日本文化、その他日本のことを全く知らない人物が読むであろう」という架空の前提にしたがって英文を書くことを強く主張している。果たして、教室でのライティングの前提はそうであろうか?富岡氏は和文英訳の問題もこの小論の冒頭で触れているが、和文英訳の最大の問題は「読み手」の不透明さではないのか?なぜ、月刊誌『英語教育』において「和文英訳演習室」は根強いリピーターに支えられているのか?評価者としての読み手(この読み手は優れた書き手でもあり、同時に優れた課題選択・作成者である)しかいなくとも、ライティング力、ひいては英語力が養成されるというlearner's beliefがあるからではないのか?そのbeliefsを共有出来る者で構成された教室においては、和文英訳は正しく機能するが、そうではない多くの現在の中学高校現場では、「擬似的な読み手」「架空の読み手」を設定しながらシラバスを構築しているのである。

井ノ森高詞明治学園中学高校教諭の実践は、いわゆる「達セミ」で広く知られているだろうが、「読み手」の設定はやはり、教室内の他の生徒と教員である。「書き始める前の活動をどう用意するかがライティング授業の生命線と言える」というのであれば、そこに絞って、「なぜ、誰に向かって書くのか」というタスク設定、さらには、プリライティング活動でどのような英語のやりとりが行われたかを示して欲しい。井ノ森氏にはこのあと、1ページ分ポストライティングに関する「小ネタ」を披露するスペースが与えられているのだが、そういう訳のわからない割り振りにするよりは、実際の生徒の作品なり、英文なりを示すことの方が意味があろうかと思う。

小栗成子中部大学助教授の原稿は、副題の「リーディングからライティングへ」という解釈をすればそれなりに有意義なものと言えるが、「発信」と「Web」というコンセプトであれば、読者はWeb「による」発信を期待するであろう。その意味では切り口がまったく活かされていないので、これは特集のテーマを執筆者に伝えきれなかった編集部の問題であろう。

吉田健三兵庫県立神戸高等学校教諭は「ハイブリッド・ライティング」という用語で、英語I, やオーラルの授業での実践を報告している。これは従来から incidental writing「付随的ライティング;偶発的ライティング」と呼ばれてきた活動で、中学校のように「ライティング」という科目設定のない教室では普通に行われてきたものであり、取り立てて新しいものではない。問題・課題は、初期段階はそれでいいとして、高校の「科目としてのライティング」のシラバスはどうするのか?ということであり、ここ10年間あまり『英語教育』誌上で紹介されるライティング実践で常に、一番最後の節で「今後の課題」のように言及されてきただけで、肝心なところは何も語られずじまいのままである。

大井恭子千葉大学教授の論考は、理論と実践のバランスの取れた啓蒙的なものであり、今回の特集の中では唯一評価出来るものである。ライティング実践を語るには英文例を示した上で論ずることがいかに重要であるか、編集部の方にもよく理解して頂きたいと思う。大井氏の論考でも、食い足りない、物足りない部分は残る。「気づき」「内省のプロセス」といった見えにくい部分は仕方がないとしても、「語彙の指導」に関しては、せっかく、「チャンク」「コロケーション」の指摘までしているので、もっと中高現場での成果やそれにまつわる苦労を示すことができたのではないだろうか?大井氏は後段で「自己表現」と「自由英作文」という概念に警鐘を鳴らしている。この部分は全ての作文教師が考えるべき問いかけであろう。

このほか、斎藤宏明治学院大学名誉教授は「英文日記」のススメをコラムとして寄せている。が、このコラムは「発信」というテーマとどのような関連があるのか?その切り口がなかなか見えてこない。日記を書くという、本来読み手を必要としない書く活動にも、読者としての内なる自分の存在や「読まれたい自分」を演出することによる内容の整理という副産物があったりと、何かしら「発信」とのからみがあるはずなので、そこをプッシュしていただきたかった。

かつての『現代英語教育』(研究社出版)は特集の扉ページに、「切り口」「ヒント」が示されていたように思う。特集に「底流」があったように思う。今回の総花的特集からは残念ながら大きなissueが見えてこない。
「日本人の書く英語はつまらない」というのは何もユーモアがないからではない、「発信」を生み出すはずの「大いなる衝動」がないところに「発信」を要求するからではないのか?ことさら「発信」を強調せずとも、「英語の力がつくからやってごらん」と自信を持って生徒に言える活動、課題、今流行の言葉で言えば『タスク』を与えてはどうなのだろうか。