紋切り型を超えて(その1)

最近、このブログに刺激的なコメントを寄せてくれるferrierさんの発言がずっと気になっている。
「なぜ一般の人たちは、学校英語はダメであると言いたがるか」

英学事始め以来100年近く言われているやもしれぬこの世論の背景にはどのような要因があるのか?
とっかかりついでに考えてみた。諸賢のコメントでたたきまくって欲しい。

学習者としての自己評価を考えた場合に、次のような振り返りがあるのであろうか? 

1 よく学ばなかった → できなかった → 日常で英語が使えない → 学校のせい
2 よく学んだ    → 良くできた  → 日常で英語が使えない → 学校のせい
3 よく学ばなかった → 良くできた  → 日常で英語が使えない → 学校のせい
4 よく学んだ    → できなかった → 日常で英語が使えない → 学校のせい

2,4は学校英語の責任が問われるだろうが、1,3はお門違いであると思うのだが、そう明言すると世間を敵に回すことになる。

これとは別に
5 よく学ばなかった→良くできなかった→やり直した→日常で英語が使える→自分がかつてできなかったのは学校のせい
6 よく学んだ →良くできなかった →やり直した →日常で英語が使える→やはり自分ができなかったのは学校のせい

という論理がある。これも、5はお門違いであるはずだが、ちゃんと話を聞いてあげる必要がある。インターネットでの英語関係サイト、ブログは圧倒的にこの6のタイプの人からの発信が多いのではないだろうか?

学校英語、受験英語を身につけた人の英語力が例えば資格試験でTOEFL、TOEICのどのくらいのスコアにあたるのか?という議論にしてしまうと、結局は「世論の根っこ」のようなものが出てこないまま平行線に終わってしまうので、主観や思いこみや偏見やデマや狂言や都市伝説(?)までまずは、その思いの背景を探ってみる必要があるのであろう。
英語教育者の視点から考えると、紋切り型の切り口は、
タイプ2の人は、今は高校入試や大学入試問題を何も見ずに解けるのだろうか?
タイプ4や6の人は、どのような学び方(あるいは教わり方)をしたのだろうか?
タイプ5や6の人が学び直したときに、学校英語に全く依存しない学習方法だったのだろうか?
というあたりであろうか。
おそらく世間の声はこのような分析ではないはずなので、中学、高校、大学と自分のクラスにいた、自分が宿題の答えを見せてあげていた友人の顔を思い浮かべて、また、自分の教えているクラスの英語が苦手な生徒の顔を思い浮かべて考えてみることから始めてみよう。