語学学習に王道はあるか?

先日、授業の合間に研究室で他の先生方と話をしていたときに、国立の附属の小中学校では、先進的な授業実践には熱心でいいのだが、きちんとした知識の伝達・定着を図ってはくれないので、塾へ行ったり、家庭で補うなどしてやらないと結局は子供が損をするという経験談が出てきて、考えさせられた。私自身、生まれてから大学にはいるまで、塾とか予備校なるものに通ったことがないので、「本物の学習スキル」を身につけてさえいれば、後は時間・手間暇の問題だと考えている。
いったい、自分はどの当たりで学習者として「助走」を終え「離陸」できたのか、ということを最近よく考えるのだが、その離陸地点というか、上昇地点は「学校の一斉授業」ではなかったと思う。私の場合は、やはり、自分でTIMEを読んで、表現ノートを作ったり、FENのニュースをしつこくディクテーションしたり、松本道弘氏に強く影響を受けNHKのTV講座のインタビューをカセットテープに録音してスクリプトを起こしたり、日本の漫画のセリフを英語に訳したり、好きなタレントやスポーツ選手のインタビューの記事を英訳したり、といった自分でねらいを定めた学習を続けていた高2から高3のときに、他の高校生とは異なる英語力のプロファイルになった気がする。そのころから受験勉強も本格的に始めたのだが、外語大、慶応大、上智大など、の入試問題を詳細に見て、受験英語の弊害がなさそうなところを選んで志望校を決めていたので学んだものの消化吸収は比較的上手くいった。周りを見回しても「英語ができる人」、というのは、まじめに学校の勉強だけをやっていた人、ではないのではないだろうか?達人と呼ばれるような人だけでなく、かなりできる、というレベルの人も含めて。
今では、何でもかんでも、学校の教師がお膳立てをして授業に参加させ、予備校の講師が頻出問題を予め精選して、教材を作り、パターン化された反復練習をして、という具合に「学習者」は自分の学習のどこに責任を持っているのか、また、どこからは、自分の自由な学習なのか、がさっぱり分からない状況である。受験と実用の両輪をうまくバランスをとって学ばせる、というのは結構。また、accuracyとfluencyのバランスをとるのも結構。でも、車の両輪の比喩を安易に使うのはmisleadingである。両輪が平行の関係にあると、どちらかの車輪が大きければ、大きな車輪の反対側に曲がってしまい、目的地へとたどり着くのは大変である。もし、両輪の比喩を用いるのであれば、自転車のように、前後の両輪をイメージするべきだろう。前後の二輪であれば、どちらの車輪が大きくても、とりあえずまっすぐ目的地へとは進めるのである。初めはふらつくだろうから、教師が補助をしてやればいいだろう。走れるようになったら、あとは目的地までの距離、つまり時間・手間暇の問題だ。
面倒見の良い教師が多くなったし、評価のシステムが「きめの細かさ」を要求していることも事実。でも、今の生徒は本当に学校の授業で英語の力が付いているのだろうか?また、予備校で学んでいる生徒は「英語力」が付いているのだろうか?そろそろ、「語学学習の基本は、自分でゴリゴリやること」、と突き放す時期ではないのか?