Everyone in his class is a grammar crazy.

夏真っ盛り。今日は、勤務校の校長先生に人物考査書の依頼。履歴書と職務経歴書を参考資料として添付した。専任のK先生にお口添え頂き事なきを得た。これで必要書類のめどが立ったので一安心。来週の二次試験に備えるだけ。とはいえ、明後日からはTOEFL集中講義。一日6時間の短期決戦。これはしんどいだろうなあ。
昨日のブログで「聴き取り」と「英文法」の話を書いたが、この手の教材の最大の問題は、学校英語を批判しつつ、学校英語の(不十分ではあるが)成果に依存した土俵で自説を展開しているところである。英文法に対する正確な知識がないまま、粗製濫造の教材で断片的な知識が増えていくことの問題を英語教育界ではあまりにも看過していないか。
Everyone in the office will have to learn to operate the new computer.という英文で、なぜ anyoneがだめでeveryoneなければならないのか、という疑問に対して、「anyoneではおかしいでしょ。瞬間にわからないとダメ。感覚として違和感を感じないと」と答えたところで、最初にわかっていない人は納得すまい。ただ、適切な比較対照の例文を提示されても、頑なに自分の思いこみに固執してしまう学習者というのは意外に多いのである。自分の持っている「仮説」を正当化する理屈を次々と持ち出して、素直に正しい用例を受け入れない根底には、「学校英語、受験英語で『公式』を暗記させられた」「『公式』の暗記が嫌だった」「覚えたのに使いこなせない」という学習者としての経験があるのだと思われる。(私にいわせれば、覚えたのに使いこなせないのではなく,『使えるように覚えていない』のだと思うが、それについてはいずれ回を改めて論じたい。)
中学、高校の現場で文法を明示的に扱うことが極端に少なくなり、市販の教材や塾・予備校で『公式』として扱うことで初めて、知識として学習者の内部に文法が構築されていく。にもかかわらず、学校でも断片的に文法学習を塗り重ねていき、塾・予備校、市販の教材が扱う『公式』そのものの設定に不備がある場合、不幸なのは学習者である。 Reference grammar for learners of English as a foreign language を今日的な視点で整備することが今一番必要なのだろう。
上述の Everyoneの用例に関連して、everyoneでなければ容認されない類例、anyoneも可能な文脈と用例を、英語教師はどの程度思いつき、提示することができるだろうか?