英文法指導で心がけていること

今年度当初に慶應大の大津先生からシンポジウムの討論者のお誘いを受けたことから、自分の年間テーマを「学習英文法」と位置づけていたので、数ヶ月の間、自分の学習者としての「学び」、指導者としてのこれまでの授業実践の振り返り、文法関連書籍の読み込み、読み返しが出来ました。
今回のanfieldroadさんの企画の趣旨にどの程度合致するかわかりませんが、以下にシンポジウムの後日談、勝手気ままな「後出しじゃんけん」として綴ってみます。(英語教育ブログみんなで書けば怖くない!企画(http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20111001/p1)に参加中!)

「人の批判や反論ではなく、自分の実践・著作を代案として示しなさい」などと諫言してくれる方には、私自身の授業実践として、日々、赤裸々に教室内外での取り組みをこのブログで明らかにしているので、過去ログ (直近では http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110928 など) をお読み下さいという言葉をお返ししておきます。

9月の慶應大シンポジウムで各登壇者に投げかけた事前質問というものがあり、ここで私の文法観のようなものが幾分かは現れていると思うので、まず、そこから読み直していただくのがよろしいかと思います。(http://www.otsu.icl.keio.ac.jp/files/i/2011/2011-09-10%20Matsui.pdf)

文法指導で私自身が重視していることは、
1. 「一文主義」からの脱却
2. 鳥の目で「体系的」に学ぶのではなく、「局地戦を生き延び」続ける中で虫の目を鍛える
3. 言葉による記述、解説の精度を高める
ということでしょうか。

1. の「一文主義からの脱却」で、「抜け出してどこへ?」という出口は2つ。タテ糸とヨコ糸です。
・語・句など文を構成する際に「要素」とみなされているものを「主体」と捉えて考え直し、ヨコ糸紡ぎのために適切に扱っています。

  • 特定の文法項目に焦点を当てているにもかかわらず、とかく、大文字で始まり、ピリオドなどの句読点で終わるまでに「文として」意味の完結する言語材料で教材やシラバスが組まれているため、文を完成させられないというときの真のトラブルスポットが見極められないまま学習が先送りになっているケースを目にしてきたので、ひとまず、文を作ることから自由になり、語と句を積み上げることからスタートしています。

・一文に過度の情報を詰め込みすぎないことで、文と文の繋がり、文と文のまとまりといった「談話レベル」の視点を押さえ、タテ糸紡ぎの必要性を感じさせるよう配慮しています。

  • 明治期の伝統的な「リーダー」は、その名の通り「読み」を前提として文法も身に付くよう、未知語の出現率も低く抑えられ、語彙との接触を繰り返しながら、特定の文法項目をターゲットにして積み上げ学習をすることが可能であったと思うのですが、近年の教材では、一度に与える分量を抑え、語彙サイズの縮小を図ることで初学者の負担を減らすことに腐心するがために、常に新出語の処理に追われ、ターゲットとなる一文での情報処理の負荷が結果として高くなり、教材の難易度が常に高く感じるようになっていると思うことがあります。

「文脈」とは言い古された言葉ですが、「文」が処理できない者に文脈の把握が出来るわけもなく、その前後の文の意味や状況設定、人物設定、その文の連なりでの発話の意図などを「日本語」や「理解の極めて容易な英語」で与えることでかろうじて「脈」を採ることが可能になるとは考えられないでしょうか。
そこから、2.の「局地戦」へと進みます。
大学時代の教職課程での英文法のテキストはR.A. Close の “Reference …” と『英文法の問題点』でしたので、教師になってしばらくは、全体としての破綻を少なくしてどう綺麗に記述するか、という「体系化」といわゆる「ネイティブ話者」はどのように捉えているか、というこだわりを持って指導していましたが、教職10年目で、二校目の公立に移った頃から、「体系」と称するものに対する疑問が生じてきました。
シンポジウムの事前質問、で斎藤さんへの問いに含んであった、

左ページに新出文法項目、右ページに例題と練習問題。たいていは、短文の空所補充完成、日本語訳。表現とは名ばかりで、整序作文に加えて、これまた短文の和文英訳が申し訳程度に配置されて、どんどん新しい文法項目へと進んでいくわけです。高1で導入された後、高2の2学期くらいまでに「テキストの範囲」を終えると、今度は大学入試の「過去問」を精選した教材でまた1年位を費やすことになります。こうした指導法をよしとする人たちの言い分は「体系的な学習」を終えてから「演習による完成」へということのようですが、「体系的」とは名ばかりで、「教師が自分の現在の視点から見た完成形」を目次的・逐次的に与えているにすぎないのではないか、と感じています。

というのは偽らざる実感で、だからこそ、各登壇者に共通して投げかけた最初の質問があるわけです。

登壇者のそれぞれが、英語学習者として「英語文法の体系」「英語という言葉のしくみ」を身につけたと感じたのはいつでしょうか?
その時に、自分が「捉えた」と思う英語のしくみ・体系は、それまでに学んできた部分の総体となっていましたか?少なかった(精選・絞り込まれていた、圧縮・凝縮されていた、統合されていた) でしょうか?それとも、実像は掴みきれないけれども、それまでの総体を越えたもっと大きなものを感じたのでしょうか?

「読み」がデフォルトで求められる教材であっても、そのまま読み進めて、疑問点の一つ一つで立ち止まり、そこでじっくり考えるか、仮説を立てて先へ進むか、そこで考えることを放棄して先へ進むかという「選択」を繰り返しながら進んでは戻り進んでは戻り、時には一緒に迷い道にも付き合うというような授業を始めました。
田地野さんへの質問に含めてあった、

「学習英文法」確立の難しさは、学習者の視点・実感を体現することの難しさでもあると思います。outline とかoutlook というものは、そもそもその実態の外側にいないと実感できないものでしょうから。
本来の意味での「学習者」の視点・実感での英文法とは、得体の知れない森に踏み入れ、迷ったり戻ったりしながらも、自分の中に、「自分の足跡の分だけの」地図を記録していきつつも、あたかも「外側」から見たかのような「全体像」な見取り図を描いていく作業ではないかと思うのです。

という思いを強くしたのは、現任校で高校生の再入門講座を担当するようになってからです。森の中の木々を一つひとつ学ぶ中で、より見通しの利く「虫の目」を育てていくことで森の中での行動範囲が広がる、というのが学校現場での指導での落としどころではないかとさえ感じています。
「学習項目の精選」によって、学習者の視点で英文法を学びやすくするというアプローチがなかなか上手くいかないことを踏まえて、鳥飼さんへの質問に含めた問いかけが、

教材・言語材料の精選と指導順序を見直す、ということは戦前戦後とずっと言われてきていることではないかと思います。そして、いまだ「答え」は出ていないようにも思います。
本来身につけるべき項目が100あるとして、それを重要度という秤で20に絞り込んだら、その20の習得は100を教えていた時よりも容易になるのでしょうか?そのメジャーな20の項目を支えて立たせるために、それ以外のマイナーな項目が不可欠であるということはないのでしょうか?

この問いかけの流れで、Basic Englishと語彙リストに言及したのですが、今回の登壇者からは芳しいレスポンスはありませんでした。私はJACET8000はもちろん、GSLそしてその改良を図ったCELに対してもやや懐疑的です。統計上使用頻度が高い語 (あるいはその語のその語義) が必ずしも学びやすい・身につけやすいものであるとは限らないのではないか、という思いがどこかにあるからです。同僚の数学の教師と話しをしていて感じるのは、数学のように体系のかなりはっきりした教科であっても教材の精選、指導項目の精選というのは難しいということです。教えることを少なくしたから、よりよく覚えるかというとそんなことはないのだ、という「教訓」は英語という教科を指導する際にも肝に銘じておく方がいいようです。精選された語彙リストから教材を作る試みは過去にも、今でも行われています。その際、その語彙項目を「活かす」ためにどのような「文法」が必要なのか、頻度の高い「基本語」といわれる語自身が要求する使用環境を、「文法」という目で見直すことが教材作成者には求められます。言い換えれば、その使用環境を「見直す目」こそが教師に求められる「文法」ということになるのだと思います。
山岡さんへの質問に含んでいたのは、

計算の手続きや、計算の仕方などをいくら丁寧に教えてあっても、また、それがよくできるようになっていたとしても、分数のわり算を考えるのに役立つものにはなりません。そういう手続きや計算の仕方を伝授してもらっただけの子どもは、「分数のわり算の計算の仕方について考えてみましょう」と言われても考えられません。/ 分数のわり算を考えるために何を教えておかなければいけないか、それを知っているのが専門家です。計算の仕方を教えているだけでは、分数のわり算の答えを出したり、計算の仕方を作り出せるようにはなりません。

という杉山吉茂の講義録からの抜粋でした。
重要度や使用頻度から言えば、Aという項目を知識として学び、その運用を図ることに時間を使う方が「効率」がいいのかもしれないが、そのAという項目を本当の意味で実感し、その運用を支えるにはaというマイナーな項目が不可欠だったり、その他の重要な項目であるBやCと共通する頭の働かせ方に習熟する必要があったりするかもしれない、という「疑いの目」で既成の教材やシラバスを見るようにしています。
山岡さんへの質問には次のようなものも含まれていました、

「頭の働かせ方」を生徒に身につけさせる時、教師がどのような指導手順・指導法をとるにせよ、「子どもに抽象することを期待するときは、違うものが抽象されないよう」な配慮が必要だと思いますし、ベテランの教師、優れた教師はまさに、そういった配慮を授業の中でしていると思う訳です。経験の浅い教師、またはキツイ言い方ですが、力量のない教師は、問題演習のような定型の反復をひたすら課すことで、その配慮の無さを補っているのではないかと思うわけです。
では、英文法(学習) の指導において、「違うものが抽出されないような配慮」にはどのようなものがあるのでしょうか?

YuleのExplaining English Grammarを読んでいて感じたことと杉山氏の講義録とが自分の中で重なり合ってというか鬩ぎ合って出てきたのが、この問いかけです。今のところ自分自身の解答もない問いですが、みんなちがってみんないい、などと「多様性」という通りの良い言葉に逃げていては中高現場では役に立たないでしょう。

だからこその、3. 「記述・解説の精度」を高めることを重要視しています。
「読み」を志向する教材で文法も身につけよう、あるいは「読み」に活かすことの出来る文法指導を「読み」を志向する教材で成立させようという場合に、対訳教材や訳註教材を見直すことで得られるヒントは多いと思います。ただ、現在の大学入試対策教材での註や訳は、言葉づかいこそ「今風」ですが、本当に英語ということばの骨格や肌触りがわかっているのか怪しいものが多いように感じています。
大津さんがブログで取り上げていた大学用教材、『リップヴァン・ウィンクル』 (開拓社) での安井稔氏の注釈からは、英語ということばの特徴に関して多くの「気づき」を得ることが出来ます。多読が流行る昨今だからこそ、「ことば」を読む授業を教室に取り戻すか、このような良質の訳註教材の中高生版を学習者に届ける必要があるように思います。今の私の実践では、80年代に日本の学習者を念頭においてRetoldされ、註が付けられた教材を古本で揃えて、学級文庫に置くことで対応を図っています。過去ログでも言及した『英語版・高ため三部作』の作成というのが将来の目標です。

以上、9月の慶應大学習英文法シンポジウムでの「事前公開質問」の振り返りでした。

今日は代休をとりリフレッシュ。
朝から物凄い霧で一面真っ白な河川敷を抜け、床屋に行って、帰りに学校に寄り、国体の総合閉会式への出席の出張届けを書いてから、書店巡り。
夕方、妻の淹れたコーヒーで一息。
新聞各紙で勤務校の生徒、教師の活躍を眺めてみる。

  • 剣道・総合優勝、成年男子優勝、少年男子優勝
  • レスリング・総合優勝、少年男子グレコローマン、74kg級3位、60kg級5位、120kg級5位

後半種目での空手道での活躍に期待したい。

本日のBGM: アザナエル (大槻ケンヂ)