世間の中心で、『否』と叫ぶ

『英語教育 8月号』(大修館書店)を読んだ。自分がどんどん世間から取り残されている気がする。私の持論で「『英語教育』の記事や連載は、最終段落で指摘だけされる「今後の課題」を読んで、自分のこれまでの実践・研究に、その課題を解決するヒントがあるかを自問することで、英語教師としての存在価値を占う」というのがあるのだが、昨今、まったくかみ合わないのだ。
今月の特集は「英語で笑おう!英語で笑える?」という現実感のかけらもないもの。「授業に笑顔がありますか?生徒にではなく、あなたにです」というタイトルなら他教科の教師も読んでくれるのではないか?もし、この特集が英語教育に重要な意味を持つのだとしたら、なぜ、4月号の特集でやらないのか?と、Guru的に息巻いてみました。
さて、興味を覚えたのは、「ゆかいな仲間…」の連載である。題は「進学校の生徒が、訳読式を支持したのは何故?」。この題は、まあいいだろう。問題は副題だ。「高校の授業をfocus on formに変える」とある。授業者は山本祐子氏(富山県立砺波高校)、助言者は中嶋洋一氏。中嶋氏は当代随一ともいうべきカリスマ教師である。
「高校では、まだまだ、形式だけを重視した授業がされているように思います。今述べたように、課題を『生徒が--したくなる』ものにするなど、授業をもっと意味のあるコンテクストで教えるfocus on formのアプローチに変えていけば、授業の質は大きく変わるはずです」(p.49)と中嶋氏は言うのだが、focus on formをどうシラバスに位置づけるかを一英語教師に委ねられても困るだけである。『focus on formsではなく、focus on formを』と唱える研究者は多い。コミュニカティブアプローチを取り入れたのは良いが、語彙力もなく、文レベルの正確ささえ覚束無いまま高校を終える生徒が圧倒的な現状で、その人達は実際にシラバスのモデルを提示してくれただろうか。Focus on formとはかけ声だけで、せいぜい『自己表現という強制的な出力を課すことによって、文レベルの正確さにも意識を強く向けざるを得ないような状況を作り出す』という落としどころをつくることくらいではないのか?(そういえばPushed output仮説、などということを唱えていた人もいましたね)。ライティングのシラバスをきちんと整備して時間を確保する、というところまで到達していないのに、『自己表現』などといって、どの授業でも中途半端な表現活動を導入し、生徒のやる気が減退しないようにするのは本質的な改善にならないのではないか。ライティングはライティングできちんとやるから、その基礎をしっかりと作っておいて欲しい。
この8月号の連載でも上述の中嶋氏の発言の直後に、「3 生徒が好きなのは、やっぱり自己表現」と授業実践報告があり、結局「英文を自力で読むことにより理解・納得する」とか「英文を英文として理解する」といった点に関しては何もしていないのである。inputはさせている、といってもオーラルイントロダクションやインタラクションで内容を理解したところで、それは決して『自力でその英文が読める』ようになったわけではないのである。私にはなぜ、この高校の生徒が訳読式を支持したのか、が判る気がする。
「ALTが相手」「海外の姉妹校相手」といった擬似的な場面設定、擬似的な目的設定をした『いわゆる自己表現』を生徒は望んでいないのではないだろうか?擬似的なら擬似的で、他人の言葉を英語で表現する『和文英訳』の方が、自分の英語が洗練されていく、より構文が成熟していく、ということを進学校の生徒は感じとっているのではないのか?
教授者としても、学習者にはやっぱり、躓きやすい所では躓いてもらわないと困るのではないのか?その代わり、躓く学習者を見捨てない。すぐには助けない、でもずっと見ている。躓きから立ち上がる方策を身につける場を提供し、そこに立ち会う。自分もかつては躓いていたことを経験として共有する、といった泥臭い学びの場を進学校の生徒も求めているのではないか?とは誰も考えないのだろうか。
『文法訳読』と世間は簡単にラベルを貼ってくれるのだが、教師自身の文法についての不十分・不正確な理解、訳出に関しても、教師の英文読み取りのレベルの未成熟さによって、英語の授業として成立していない授業を規準として、『文法訳読』を十把一絡げに批判するのは的外れである。高校レベルの言語材料、論理展開、題材の価値観などを消化吸収出来るようなfocus on formのシラバスを誰か見せて下さい。Readingはreadingとして、ちゃんと位置づけ、自己表現にすり替えない、という条件付きでお願いします。
今月号の唯一の救いは吉田達弘氏の「タスク活動中に学習者は本当は何をしているか?」(p.88)だろうか。この論文の持つ意味は大きいはずであり、これこそ特集に値するというのが偽らざる心情である。