gallantryという語で私は「利家とまつ」を連想する

1学期終了!
中間から期末までの授業が少ないので、出題も苦労した。成績提出も無事に済ませ後は夏休み。今までの勤務校だと、夏のサイドリーダーなどが指定されるのだが、ここでは「何冊か読んでみてはどうでしょうか?読んだらレポートをして下さい。」という自主性に依存した課題。私は、高2の自分のクラスだけ「英詩を一篇暗誦する」という宿題を課した。2学期最初にビデオ収録の予定。
昭和女子大オープンカレッジの講座が開講されなくなってしまったので、夏の講座はTOEFLの短期集中講座5日間とELEC同友会のサマーワークショップでの「ディクテーション再考」のワークショップ1日だけ。せっかくシラバスも考え教材も準備したので「シャドウイングとディクテーションで鍛える夏2005」なんてタイトルで、この夏の間にどこか会場を借りて講座を開きたいなあ。現職教員と教員志望の学生・院生と普通の人が混在した講座でやってみたい。10月からの学期での再募集を予定しているが、冬休みなどに短期集中でやれるように交渉してみようと思う。
今日は、通勤途中に何か読もうと思い、書棚にあったワシントン・アーヴィングの『スケッチブック』(大学書林1953年)を鞄に入れて家を出た。終わりの方に収録されている "The Wife"での一節に不覚にもジーンと来た。40歳を過ぎて初めて判る感覚なのだろうか。この作品を蔵書にお持ちの方は、おそらく私と同年代かそれ以上の方ではないかと思うのだが、私がどこにジーンと来たのかguessしてみて下さい。ちなみに、大学書林のこの文庫は小川芳男氏の注釈・対訳。研究社の小英文叢書だと青木常雄氏、新訳注双書だと篠田錦策氏、学生社の直読直解アトム英文双書だと岡本圭次郎氏の注釈となる。限られたスペース、文字数での優れた注釈、用例の提示、そして訳文。今、マテリアルライターとしての目で読み直しても非常に刺激的である。『双書』『叢書』は学生(学習者)が教授者を育てていた時代の教材なのだろうか、などと考え研究室にはいると、『STEP情報』の最新号だろうか「進化する和訳先渡し授業」などというタイトルが目に付いて、ちょっとげんなり。先渡しでも中渡しでもどうでもいいから、Gimmickyなことをするのではなく、いっそのことテキストは対訳・注釈付きの『叢書』にしてしまったらどうだろうか?教科書は検定教科書を使い、教授法は『いわゆる今風のコミュニカティブな』方法を採用し、英語で授業を進め、というのは良いのだが、それでは学習者はどこで『ストンっと腑に落ちる』のかを保証出来ないので、和訳は与えておく、というのでは『欺瞞』ではないのか?慈善事業ならぬ、『偽善授業』に成り下がってはいまいか?教材として「用意された」英語よりも質の低い英語でオーラルイントロダクションをするくらいなら、堂々と訳読をして、文法の解説もして、語にまつわる蘊蓄を語り、消化吸収して血となり肉となるような教材とシラバスをもう一度教室に取り戻してはどうだろうか?