『ことばのために』

英語教育は言葉の教育、ということで『ことば』に関するネタを。
岩波書店から表題にあげた評論のシリーズが出た。どの程度評判になっているのかはよく分からない。『僕が批評家になったわけ』加藤典洋 著(2005年)を今読んでいる。このシリーズには加藤典洋の他に、平田オリザ、荒川洋治、関川夏央、高橋源一郎。このように編集委員を並べてみると、加藤の本のタイトルは高橋源一郎的とも言える。(どれも読んでみたいのだが、1冊¥1700円。懐具合と相談せねば…。つらいな非常勤講師は。)
もう10年近く加藤典洋を読んできたが、これは近年稀に見るすがすがしい作品といえるのではないだろうか。お寿司屋さんで閉店後に出された、おむすびで米の一粒一粒がはらりとほどける、あの感覚、といったらよけいに分からなくなるだろうか?
名文、名作、文学作品、古典などと縁遠い昨今の英語教科書の話を以前のブログでも書いたが、私は何も「古典」を採用せよ、といっているのではない。この加藤の「批評についての批評」は、温故知新で終わらない、今を生きる、そして明日につながる突破口となる『素材文』とはどうあるべきか、を考えるヒントになる予感がしている。
「世間は世界とは違う。社会とも同じではない。そこには何か因習的なもの、たとえば近代的な意識などによって整序されないもの、近代的な観点から見たら困ったもの、悪しきものがたくさんある。しかし、ある作品が良いか悪いかを決めるのは、ということは『良き作品』を生み出すのは、世間である。世界ではない。」(p.232,第5章 批評の未来「世間である、世界ではない」)では、若き日のカフカの言葉を繙き、平明な地平にその意味を広げて見せてくれている。
「二階に上がり、地下にくだり、しかも一階の感覚を失わないこと。」「一階にとどまり、のほほんと机の前に身をおき、しかも、二階の感覚、地下の感覚を、失わずにいること。」(p.246, 第5章 批評の未来 「一階の視点を手放さないこと」)では、レヴィナス、ソンダク、そしてドストエフスキーのスタンスに触れまとめている。
「ことば」に関わる多くの人に読んで欲しい本である。