君が待っていた言葉

免許更新も無事終えて、安堵。
いや、自動車の運転免許ですよ。

11日に迫った広島のセミナーの印刷資料の作成も終え、担当の先生への送付も完了。
中高にまたがる課題の設定にはちょっと悩んだけれど、英検3級レベルと高校入試レベルの「お題」で、中学の出口と高校の入り口を考え、大学入試でよく問われる「お題」をもとに、高校段階で何を考えておくべきかを問えればと思っています。複数題を用意しましたが、参加者の顔ぶれを見て、余り欲張らずに進める予定です。

今回、久々に「ライティング」のお座敷なので、「書くこと」「書くことば」について考えていて、当然のごとく、その前の「読む・聞くこと」「読む・聞くことば」についてもあれこれと考える時間がありました。『英語教育』などで取り上げられる今風の授業のありようもいろいろ眺めていたのですが、何だか、自分の居場所がなくなってきたなぁ、という思いが強くなってきています。

英文を読むにも聴くにも「一言一句の全てを理解しているわけではない」と、選択的理解を推奨し、「教授者が狙いとする課題が達成されていれば、そこまでにやりとりすることばそのものは不問」とし、「正確さよりも流暢さ」とばかりに「発話量を増やす」活動を推奨するような英語教室が増えていく中で、「その発話の適切さ」はどう担保されているのでしょう?そもそも、その授業で教材として提示する「素材たることば」はどう選ぶのでしょう?

情報転移で「グラフィックオーガナイザー」を使う授業も流行っています。「読み」がデフォルトで設定されているであろう「テクスト」から、キーワードをグラフィックオーガナイザーに移植する「課題」で、うまく移植できなかったものは、何が読めていないのか?移植できた者も、本当に読めていたのか、をどのように確かめるのでしょう。理解の確認の手段が貧弱であることには目を瞑りますか?そもそも、クラスターや枠や表などの「グラフィック化」そのものは、教科書の著者陣や教師がやっている場合が殆どなのではないでしょうか?それって「主体的」な深い処理ですか?

「即興性」というのも、今どきの(そしてこれからの)英語教室を縛る強力な呪文かも知れません。なぜ、教室でそんなに急ぐのか?なぜ、教室の外にある「現実」を教室に移入することに躍起になるのか?

ある「テクスト」を読んだ後で、「ディベート」だか「ディスカッション」だか、即興で意見を言わせる前に、「そこ、本当に読めていますか?」って言ってあげる人は教室にいないのでしょうか?教師は「ファシリテイター」だなどと言われて久しいですが、学習者の問題意識が高められて、その「お題」に感情移入できることが主眼なのであれば、もとの「テクスト」たる「英文」は最早不要ではないのでしょうか?

即興で自分の書いた原稿を見ながら他の生徒全体に「読み上げ」ているときに、耳で聞くだけで理解できている者がどれだけいるのか?ペアで意見を「やりとり」した後での、別な相手に「レポート」するのでも、そこで「理解し損なった」「伝え損なった」意味をどのタイミングで、誰が掬い上げるのか?

どのような活動をするにせよ、高校の英語の授業は
・ことばそのもの
・意味・語義・定義
をもっと丁寧に扱うべきではないのでしょうか?

共著である『パラグラフ・ライティング指導入門』(大修館書店、2008年)の高等学校編は私の担当です。そこで紹介している活動例は全て実際に私が勤めていた高校の授業で行ったものをまとめています。

その最初に紹介している活動は

次にあげる1.-10. の形容詞は、全て人の性格・性質を表すものです。しかも全て、好ましい・積極的・肯定的な意味を持つものです。それぞれの形容詞が描写している典型的な動作・行動をイメージして、 (a)-(j) の言い換えから最適なものを選びましょう。

というもの。
形容詞のリストは、

1. optimistic
2. hardworking
3. serious
4. ambitious
5. sociable
6. organized
7. competitive
8. confident
9. independent
10. patient

典型的な動作・行動の記述は、

(a) do not tell jokes or laugh
(b) always work hard in your job or school work
(c) stay calm without becoming annoyed or bored
(d) have a strong desire to be successful, rich or powerful
(e) hate to lose and always enjoy trying to do better than other people
以下略

となっています。
なんのことはない、形容詞の定義を動作・行動に移し替えることで実感してもらうという教師の「目論見」です。ある「ことば」を使う以上、その意味がはっきりと分かった上で使う方が、分からないまま使うよりはいいだろうというteacher’s belief と言ってもいいでしょう。

語義をもっと大切に扱いましょう、といいましたが、たとえば形容詞のリストの最後にある patient。
この語は日本語訳では「我慢強い」「忍耐強い」などとされることがありますが、英語では「強さ」として認識されているのでしょうか?上述のマッチングの活動であれば、

  • (c) stay calm without becoming annoyed or bored

が当てはまるところです。最近の辞書からの定義も引いておきましょう。

COBUILD Am E
・If you are patient, you stay calm and do not get annoyed, for example, when something takes a long time, or when someone is not doing what you want them to do.

Activator
・able to wait calmly without becoming annoyed or bored

Cambridge
・B1: having patience 
→ patience = B2: the ability to wait, or to continue doing something despite difficulties, or to suffer without complaining or becoming annoyed

  • この語義に「強さ」を感じますか?

というような「問いかけ」「揺すぶり」を、高校卒業までのどこかでやっておく必要があるのではないでしょうか?

拙稿での、この活動の続きは、今では中学校どころか、小学校の「外国語活動」でも行われているであろう「自己紹介」へと発展していきます。何が、小学校段階、中学校段階とはことなる「ことば」の使い方となるのか、是非、拙著・拙稿をお読みいただきたいと思います。

パラグラフ・ライティング指導入門―中高での効果的なライティング指導のために (英語教育21世紀叢書 17)

パラグラフ・ライティング指導入門―中高での効果的なライティング指導のために (英語教育21世紀叢書 17)


表現活動でとかく持て囃される「ディベート」や「ディスカッション」のような「意見」「論理」から少し距離を置いて、「物語文」を扱う実践も少しずつですが増えてきた印象もあります。ただ、ここでも、世間との温度差を感じています。

もともとの英文がオリジナルであれ、retoldであれ、折角、誰か作家・作者によって書かれた「物語文」を素材として読んでいるのに、それをさらに劣化した言葉でretoldさせるような「実践」を見ると、「では、どうしてもとの物語を読ませることにしたのか?」と思うわけで、そういう活動に教育的意義を感じないのです。

そんな活動に、reading & writingの「技能統合」とか、「深い処理」とかいうラベルを貼って「今風」を装うくらいなら、絵や写真や年表をもとに、生徒に物語らせておいてから「教材」の英文を読ませて、自分の書いた「テクスト」とのギャップに驚いたり喜んだりすることの方がよほど教育的意義があるでしょう。「流石、プロのライターは違うな」と思えるような素材を選ぶ必然性が生まれると思うのです。もちろん、習熟度が高く、所謂「帰国子女」などが多数いるようなクラスであれば、「なんだよ、俺の英語の方がいいじゃない!」などということもあるかもしれません。それはそれで意義深いことでしょう。

以前、語研のセミナーだったか、津田塾大のセミナーだったかで、「置き換えられないことば」というキーワードで「詩」を扱った発表をしたことがありました。

この過去ログからリンクを辿ってください。
http://tmrowing.hatenablog.com/entry/20160615

詩の言葉を、自分のことばで要約してしまっては言葉の価値は何もなくなってしまうでしょう。それぞれの学習者がそれぞれに解釈して、自分(たち)のことばでパラフレーズしたとしても、やはり、詩の元々のことばに戻って、そのことばを生き直さなければ意味がないと思うのです。もう10年ほど前の話になるでしょうか。

では、何故「物語文」はそんな勝手な加工をしても許されるのか?いたたまれない思いです。「テキスト(=教科書、教材、学習材)」での「テクスト(=ことばそのもの)」の扱いを再考する人が増えて欲しいと願ってはいますが、その思いが私の中で強まっているということは、そろそろ私は、この舞台から退場する時期に来ているのだろうなぁという感じもしています。

本日はこの辺で。

本日のBGM: Goodbye (Mamalaid Rag)