笑えるうちに笑っておくんだ

週明けは採点地獄か極楽か…。
って、どっちも行ったことないんですけどね。

期末試験終了。ということで、当然、作問も終了していました。
定期試験の交換も動き出した感じです。お互いの教室が見えない以上、ダイナミズムは推察するしかないわけで、安直な批評は役に立ちません。それでもなお、参考になる部分、ハッとする作問には出くわすことがあるので、これもまた「『…なんです』山脈」への足がかりかと。

今回の高2、高1では、授業で扱う「今月の歌」からの出題もしています。オリジナルな手法ではないでしょうが、目の前の生徒の顔を思い浮かべてあれこれ画策中。
高1用 →09_2末_songs.pdf 直
II. の方は、私にしては珍しい全米大ヒット曲 “Don’t worry Be happy” の歌詞を踏まえての出題。
III. は、Utopiaの “There goes my inspiration” を踏まえての出題。それぞれ、オリジナルの歌詞は歌詞検索サイトなどをご活用願います。
IV. の書き取りは、それぞれの歌詞を踏まえての文にしてありますので、歌がスラスラ歌える生徒はまあ、書き取れるかと。

高2用 →09_高2_2末_Songs.pdf 直
II. の曲は “If we should meet again” by Richard X Heyman です。ここでは、単純な空所補充ですが、錯乱肢も一応は脚韻を踏むように作ります。この錯乱肢に、生徒が各曲の感想で書いたフレーズなどを入れることもあります。今回の、f. の文は、ある女子生徒が、この前の曲、 “True love travels on a gravel road” を扱った際に書いてきたものです。
III. は The Smithereensの “Strangers when we meet” の歌詞をもとに、storyに仕立てたものです。やや強引ですが、下手でもまずは自分で書くことから始めています。
IV. は、Todd Rundgren の “Lucky Guy” を歌われている主人公の視点で書き換えたもの。最後の1語を書かせる出題です。

このような仕込みを経て、次の学期では、自分たちで、「物語」に書き換えたり、「続編」を書いたり、「登場人物の視点を変えて」書いたりする、「書く活動」へと移行していくことが狙い・目論見です。

もう一つのミッションを終え、オークションで落札したCDと書籍を受領。ホッとしました。

  • 佐藤隆、『コムシ・コムサ』。

これは、1980 - 1985のベスト盤。デビューシングル『北京で朝食を』はもちろん、「ジョンにインスパイアされました」では済まされない気がする名曲『コスモポリタン』が収録されていて、私の高校時代の愛聴盤でした (当時はレコードでしたが)。これは絶対に復刻盤が出ない (出せない?) と思っていたので、掘り出し物でした。

  • 和田孫博 『精説英文読解 内容からのアプローチ』 (駸々堂、1992年)

これは、公立校勤務時代によく生徒に紹介していたのだが、引っ越しの際にどこかに行ってしまった学参の買い直し。過去ログで言及したこともある。破れも書き込みもなく状態は良好。序章と本編を合わせると300頁ある、今では古いタイプの学参になるのだろうが、出典や索引があること、語彙・構文の扱い、簡にして要を得た解説など、今風の「長文読解」とか「速読」教材とは一線を画するもの。
徒に量やスピードを求めるのではなく、良質の英文をきちんと読むことが大切だ、という著者のメッセージが伝わる好著です。進学校の先生がこういう骨太の読解力養成のための学参をきちんと書いていた時代があったのですね。

あとは、過去ログでも大きく取り上げた、

  • 毛利可信 『ジュニア英文典』 (研究社)

を何とか借りることが出来たので、大切に読み、消化吸収し、自分のことばで語れるまでに血肉化したいと思います。
今月の『キャリアガイダンス』 (リクルート) に長田弘さんのエッセイが載っていたので、クラスで紹介。こういう良質の言葉が全国紙の文芸欄などに出なくなって久しいのではないか。いちばん出て欲しくないメディアに、一番読みたい人が載るというのもまた自分への試練か。
今日は日が暮れてから帰宅途中で夕飯の買い出しに。
喉に少し痛みを感じたので、元気の出るメニューは、と豚肉の生姜焼き用のロース肉をコープで品定め。黒糖くるみも忘れずに購入。
帰宅後に雨足が少し強くなる。
採点の目処も立ち、ようやく本を読めるのが嬉しい。
新刊の『英語系諸言語』 (三省堂) が編集者より届いていたが1週間ほど手つかず。英語という言葉と正面から向き合うというか、足下から揺すぶるというか、一筋縄ではいかない本なので。私の英語力では原書はちょっと無理そうだから、この邦訳は有り難い。それでもかなり時間がかかると思う。
まずは、再読はじめの片岡義男 『日本語で生きるとは』より引きまくる。

  • 英語という言葉は、文法のルールを正しく守ることを、厳しく要求する。ルールの厳しさが、そのまま英語という言葉のぜんたいだ。ルールの厳しさは、しかし、学びやすさでもある。ルールにのっとればたちまちつうじて、どこまでも機能してやまない。/ 文章を組み立てるためには、守らなければならない一定のルールがある。そのルールを線路さながらに頭の中に敷きつめる。言葉のひとつひとつが貨車だ。ルールを守って正しく貨車をつなぐと、一本の整然たる貨物列車が出来る。正しく組み上げられたワン・センテンスだ。それを次々に線路上に走らせればいい。ルールは絶対のものだから、正しく覚えて正しく使うほかない。そしてじつはそれがいちばん簡単で有効な方法だ。(p.98)
  • 自国語である日本語でなされる発想から、無駄なものを可能なかぎり削り落とし、自分の論理の展開のために必要なものだけにし、もっともわかりやすい筋道に沿ってそれらを配列し、正しい英語表現という共通ルールに乗せて、相手に届ける。このことのためにこそ英語が必要なのであり、このことのためにこそ英語を勉強するはずなのだが、日本人の多くがめざすのは、安直に覚えることができてすぐに役に立つという種類の、英会話だ。 (p. 133)
  • 自分のものとして獲得しようとする言葉の質が、きわめて低い。それに志も低い。目標とも言えないような低いところに、目標とする言葉が設定してある。絶対に自分自身以外ではあり得ないこの自分、という存在が使う言葉のひとつとなるはずの英語になによりも必要なのは、用法の正しさの上に立ったスタイルだ。(p. 174)
  • 自分専用の固い枠に入り、その中に守られて安心していたい人にとって、対話のためにまずしなければならないのは、自分専用の枠のなかから、その外へと出ることだ。出ないで対話を試みると、自分の意見とは異なる他者の意見を、その人は自分が収まっている枠で、受けとめることになる。大きく異なっている意見も、あるいはほんの少ししか違わない意見もすべて一様に、その人の入っている枠にまず衝突する。(p. 174)
  • いつも入っているための自分専用の枠が、なぜそんなに必要なのか。個人としてきわめて脆弱だからだ。個人としてたいへん弱いとは、どういうことなのか。鍛えられていないからだ。個人はどのように鍛えられるのか。言葉によってだ。言葉は考えを言いあらわす手段だ。その言葉が鍛えられていないとは、自分でものを考える力がきわめて弱い、ということにほかならない。 (p. 180)
  • 対話や議論は、いままでなかった新しい価値の可能性だ。そのような価値は現実にはまだどこにもなくても、論理の言葉をつくし合うなかに、先取りされた可能性として、浮かび上がることは充分にあり得る。対話や議論がないと、この可能性もまたないことになる。 (p. 185)

英語ということばを今日どれだけ生きてきたか、と自らに問い、その5分後にTVでイロモネアのつぶやきシローに笑い転げる。

本日のBGM: Laughing (R.E.M.)