”Amateur Academy”

今回、高校・小学校・中学校と続けて指導要領の改訂に向けた中教審の提言が報じられたことを受けて、英語教育の専門家は概ね穏当な反応しか示していないようだ。メディアも提供された情報をただ垂れ流すだけで、「この中教審の提言をどう評価するか?」という問いを向ける相手を探そうとはしない。議論が深まりもせず、突き抜けもせず政策が実施されるのを他人事のように待つのはゴメンである。

中教審の外国語専門部会の委員名簿は以下で公開されているが、2005年のものである。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/meibo/05062009.htm
今年度はどうなのか?このままなのか?今年の7月27日の議事録で確認出来る委員はこちら。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/07072001/001.htm
昨年の第15回会議での委員の発言から抜粋。
→ http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/06080203.htm

  • 子ども達は英語は大切で,社会に出て必要だと感じているが,それにもかかわらず英語の授業はあまり好きではないと言っている。他教科に比べ,塾などの習い事も英語が多い。今の授業が子どもや社会のニーズとずれていることが問題であり,その中で授業時間数について議論しても無意味である。指導方法を改善していく中で授業時数が不足しているということなら説得力がある。小学校英語導入の議論は,小学校で英語を実施するかどうかだけでなく,英語教育全体の改善をどうするかということにつながっている。

確かに英語は塾・予備校・通信講座などの利用率が高いだろう。しかしながら、中学高校段階で「コミュニケーション能力」をつけるために塾通いしている生徒の割合は把握されているのか?

  • 高等学校部会においては,現場の先生の中から,従来の英語教育でよいのではないかという意見も出されているが,文部科学省は過去の英語教育の問題点を根本的に変える方略を作ってきた。しかし,現場教員の中にある「従来の英語教育でよい」という考えが,改善の推進を妨げている。秋くらいには,部会としてきちんと方向付けをする必要がある。文部科学省は時々腰が引けているところがあるように感じることがあるが,今回提案されている資料からは,積極的に取り組もうという姿勢が感じられる。一般の関心も高いことから,マスメディアもこの問題をどんどん報道している。

「過去の英語教育の問題点」と簡単に片づけてはいけない。現行の指導要領を作った人たちの責任はどこに行ったのか?傍聴はマスコミだけに制限し、プレスリリースを意図的に行う会議のあり方をこそ変えて欲しいものだ。

  • 文法の専門家といっても,生成文法家や第二言語習得論分野の人材は,教育に関心はないと明言しているので,教育的には関連性が薄いであろう。改善の方向性は,知識はあるが使えないという問題への解決策にはなっているので,その意味では前進であるととらえることができる。しかし,コミュニカティブに話すことはできるが,応用が効かずしっかりした英文が作れないという問題への解答になっていない。次の段階としては,両方の悪いところを是正するような形での方向性が出てきてほしい。can_doで示すような機能的なことができるためには,その前に基本的な語彙や文法が必要であるというところが見逃されている。それらの両方を融合するのが次のステップである。改善について,ある意味で目標の方向性のレベルを上げたということであって,そこへどのようなプロセスで到達するのかという示唆が見られない。その部分をもっと煮詰めてほしい。

こういうまっとうな発言はメディアでは取り上げられることがないのだ。1社くらい、1記者くらい、食らいついて取材を進めても良さそうなものだが、その程度の価値さえ「日本の英語教育」にはないということなのか?
事務局(=文科省側)の発言はこちら。

  • 先ほどの「オーラルを重視しすぎるのは危険」という意見については,高等学校部会で出された意見ではあるが,現場の先生の意見ではないので,念のために申し添える。「オーラルの指導を重視しすぎるのは危険」という意見は,大学の専門の教科を担当している委員からの意見である。

頑張って下さい。
とにかく「世間」から信用されていない「英語教師」である我々は、英語教育の専門家・実務家として情報をきちんと把握し、言うべきことは言う時期ではないのか?
少しさかのぼって、05年3月の第6回会議から、「書くこと」に関する委員の発言を抜き出してみる。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/gijiroku/015/05032201.htm

  • 書くことについて,英語の公開授業を見ていると,一見華やかなスピーキングが多く,地味な書く,読むといった授業はされていない。また,授業では文を書く訓練は行うが,ある程度まとまった文章を書く訓練についても系統立てされた授業がほとんど行われていないように思う。教科書の構成等も会話中心から,長文を取り入れるような工夫が必要である。

系統立てた授業をするために「ライティング」というカタカナ語の科目を独立させたのではなかったのか?この委員の発言がきちんと理解されていれば、独立した科目の内容を整備するという真っ当な改善策になったろうに。

  • 自分の思ったことを発信するには,単語,センテンスの十分な蓄積がないとできないが,その蓄積を行うためには,今の中学校・高校の教科書では,量が少なすぎる。

至極真っ当な意見。一般のメディアは誰も取り上げない。量に関しての議論では「必修語」の問題と「総語数」の問題と「繰り返し」の問題をクリアーする必要とがあるのだが、なんと言っても、「語彙『数』」などという言葉がそのまま報じられてしまうレベルである。(この点を指摘した数少ない専門家は→ http://d.hatena.ne.jp/umamoto/20070831

  • 現場にいて,内容のまとまりのある一貫した文章を書く力がないのは実感している。ただ,子どもたちの中には,読みにくいものの,内容としては一貫した文章を書く子もいるので,文書を書く力という時に,どのようなものを目標とするのがいいか考える必要があるが,そのような文章を書く訓練が高校段階までなされておらず,大学入試の前に小論文の訓練を付け焼刃的に取り組ませているのが現状である。まとまりのある文章を書く力は,訓練すれば身に付くものなのだが,そこで大切なのは,なぜ文章を書くのかを生徒に,はっきりと示すことである。入試のためだ,では伸びない。読むことに興味があって,読んだこと,議論したことに対して自分の意見を書こうという意欲をもったときに力が付くと思う。そこで,教員については,こういう授業をしたからこんな文章が書けるようになったと理解させるような,コミュニケーション活動の中に目標をもつ指導法を身に付ける必要があると思う。

「入試のためだ、では伸びない」まではいいでしょう。でもなぜ、いつも「書くこと」の指導は「読み」に逃げるの?では「読むこと」の指導はどこに逃げるというのか?昨年しつこく『読み』について発言し、『英語青年』でも持論を述べたのだが、「書くこと」の指導と誠実に向き合っていれば、「読むこと」の指導の改善は否応なしについてくる。ただ、それは最初から「統合」してとり組んだ成果ではない。Training specificationというのは運動生理学の世界では常識なのだが、言語習得の世界では当てはまらないようだ。この委員の発言に対しては、次の言葉を返しておこう。
「書くことに興味があって、あるテーマ、ある話題、ある相手に対して自分の意見を書こう、という意欲を思った時に、もっときちんと読もうとする」
書くこととは直接関係ないが、いかにもな発言がこちら。

  • 教科書の在り方を検討する必要がある。中学校の教科書は,学校文法で構成され,自然なコミュニケーションが展開できるような文章となっていないので,これまで大事にされてきた学校文法をどう改めていくかが課題だと思う。また,高校では,トピックがいろいろ載せられているが,授業のたびに違う内容となり,語彙の定着が難しい構成となっている。特に高校では,生徒が語彙を予習し,英文が読めることを前提としているので,1度英文を読むとそれで終わりとなり,繰り返し読むことがないので,生徒に繰り返し読む動機付けを与える指導が必要である。読めばディベートができるのではなく,タスクやプロジェクトを与え,ディベートをするために同じ内容,関連した内容の文章を繰り返し読まなければならないという状況を設定することだ。そうすれば,英語がコミュニケーションのツールという発想も生まれてくると思う。

なぜ、すぐに「ディベート」をやりたがるのか?たとえばfirst constructive speechを準備するためには、きちんとしたライティングの指導は必要ではないのか?ディベートをすると英語がコミュニケーションのツールとなる?ちょっと待って下さい!「英語でのディベート」は日本の教室にいる生徒のコミュニケーション・ニーズを満たしていると本当に考えているのか?満たしているのは「コミュニケーション能力養成ニーズ」でしょう。なぜその部分を本気で訴えないのか?
高校英語批判で「大学入試」を持ち出す有識者は、全国の高校生の約半数は大学入試が学習の動機付けとはなっていないということを全く認識していない。たとえば『新英語教育』(三友社出版)を読んだことがあれば、全国の中学校・高校の英語教室の実態を少しは多角的・多面的に捉え直すことができると思われる。
ただ、私もこうして英語教育の世界の身内だけの批判で安心していられないことが、次のような動向から感じ取れる。このような動きに敏感でなければ、どんどん土俵は狭められてしまう。
言語力育成協力者会議(第8回)配付資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/036/shiryo/07081717/004.htm

「77年改定」を受け、中学校英語の「週3体制」が始まった1981年に、「中学校英語週3時間に反対する会」は約4万人の署名を集めて国会に請願を行った。当時の状況、とりわけノンポリよろしく冷ややかな対応をする英語教師の話を師匠に聞いたことがある。
全国の英語科教育法が開講されている大学の図書館や担当教官の研究室には当時の『英語教育』(大修館)、『現代英語教育』(研究社)、『新英語教育』(三友社)、そして『英語教育ジャーナル』(三省堂)のバックイシューがあるだろう(たぶん…)。
「これからの英語教師」を志す若い世代には一度はこの当時の英語教育界の動向を眺めておいて欲しいと思う。
歴史は繰り返すというが、歴史から学ぶということは、過ちを繰り返さないことでもある。

本日のBGM: NO. OH (Moonriders)