”ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて…”

学習合宿終了!
高2+高3はVOAの音源とスクリプトを利用して、ディクトグロスもどき情報保持読解。約600語の英文(約5分)を聞きながら眼で文を追い、聞き終わり(追い終わり)で裏面に内容を書き出す作業。600語を一気にやると、悲しくなるくらい何も保持出来ていないことに気がつく。だからといって、「やさたく」を一知半解でとり組んでも、現実問題として「読めないところが読めるようにはならない」。当然、入試にも間に合わない。「語彙が極端に制限されているのに、なぜ理解に支障を来すのか」、という自分の課題とどれだけ向き合えるかが鍵。ここを避けていては、「和訳先渡し」をやったとしても読みの力に変化は起きないのだ。英語力の高い3年生が参加することで、高2には大きな刺激となったことだろう。パラフレーズとサマリーを意識して2学期の授業にとり組ませたい。

高1は、普段私が、高2・高3レベルの実践でディクトグロスに用いている英文を利用しての文整序段落完成。4文から5文で1段落の文章。特に名詞・代名詞・指示語などの語彙項目による結束性に焦点を当て、discourse markersに逃げない読解を指導。クラスを4グループに分け、各グループに必ず3年生が入るように編成。一人に一文を配布し、自分の英文を覚える。まず他のグループで同じ英文を担当する者を探し出し、担当者会議を2分。語義の疑問点を確認。その後、グループに返って、並べ替え段落完成。自分の文は見せてはダメで、必ず口頭で繰り返す。整序が終わったら各グループ1列に並び、前から順番に読み上げていく。当然、先ほどの担当者会議をやっているので、並んだ時点でどよめいたりもするのがミソ。食い違いが出たところで、主題、内容上の繋がり、結束性に関して質問を投げかけ、考えさせる。正解を確認した後で、個人ベースで、新たな紙に段落を写す作業。私の範読に続いて音読を繰り返し、暗写。ところが、結構綴り字や活用、冠詞などは間違えているので、各担当者がグループ内全員分の誤りをチェック。赤が入ったものを元に、音読、read and look-up、write on the flip side(裏面に転写)まで。疲れた。

夜中の1時過ぎまで、英語科主任と教育談義。シラバスやカリキュラムも含め、先日の高校英語に関する中教審の提言に関して、お互いに思うところを述べた。

今のところ、詳しいプレスリリースは
中国新聞(http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200708280059.html
読売新聞(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070827ic22.htm
あたりでわかろうか。
文科省サイトの中教審アーカイブでは、まだ27日の内容は公開されていないし、電子政府のパブリックコメントでも高校英語に関する意見募集は行われていなかったので、読売のニュースにある、

  • 国際化が進み、実践的なコミュニケーション能力の重要性が高まるなか、「聞く」「話す」「読む」「書く」の4技能をバランス良く学んだ方がいいとの意見が現場などから相次いでいた。

のうち、「現場などから相次いでいた」という部分が引っかかるなぁ。どの「現場」?「など」って、現場以外の誰がどこで何を誰に言ったのか?

中教審のメンバーにも知った顔があり、他にも「有識者」の英知が集結した提言であろうとは思うのだが、なぜこのようなお題目になってしまうのか?「変えました」ということをアピールするための提言か?
高校英語は「文法訳読に偏っている」ことだけが問題なのではない。「『文法訳読』をやっているつもりなのに、文法も身に付いていない、読解もできるようになっていない」ことが大きな問題なのだ。問題点をすり替えてはいけない。
私としては、「話す・書く」ということに注目が集まるのは歓迎だが、「コンテンツ」とか訳のわからない概念を未整理のまま無責任に指導要領に入れるのは止めにしてもらいたい。(少なくとも、約20年前に英国のナショナルカリキュラムのMFLのKey Stage 3&4が示していた、「MFLで扱う内容領域」のような具体的な話題・トピックの分野を併せて示すべきである。)
結局、話すべき・書くべき「語彙と文法」を英語で身につけていくために必要不可欠な「聞き取り」「読み取り」の技能を明らかにして、その指導技術を併せて整備しなければ、申し訳程度の ”output”をいくら数多く課しても、何も身に付かないまま終わりかねない。読みの方法論の貧困さをoutputでごまかすようなことがあってはならないのだ。
高校では現時点で「ライティング」という科目がきちんと独立して存在しているのに、書くことの指導が適切に行われていないのであるから、「統合」したところで上手くいくとは到底思えない。相も変わらず、「文法を ”体系的におさえる” ための手段として『ライティング』が搾取されている」現実をどう変えるのか?現場に任せるだけというのなら、これ以上の愚策・愚政はない。
「文法」に対する批判は、その歴史が英語教育の歴史といっていいくらい、人口に膾炙しているが、批判した上で、何を提示しただろうか?「ハト感」「コアミーニング」、「やさたく」「百万語多読」、「音読」「シャドウイング」…。伝統的な教授法であるPPPに取って代わる「べき」ものとされている、Task-based な教授を教室にいくら入れたところで、教室の外の現実が切実でない以上、「英語力がつくからその活動をやるのですよ」という以上の理由付けなど存在しないのだ。
主任との議論で沸騰したのが、いかにも今風なform-meaning-useの概念で語るgrammar(ing)でさえ、なぜいつまでも意味のわからない未知との遭遇でformの提示を行うのか?という部分。
英語の授業では、いつまで経っても、「新出事項」を英語で提示する。絵を元にしたり、レアリアに頼っていても常に、「英語での新たなform」を見たり聞いたりした時に、「そのmeaningがまだよくわからない」のだ。だから日本語訳や日本語解説への依存から脱却できないのである。そこで「安心・納得」してからでないと、”use”に取り組めないのだ。”use”をやっているうちに、「気づく」でしょう、というのは完成された体系や使い物になる技能を既に持っている教授者の視点であり心理である。
日本語を使ってもいいから、まずは”use”の現実的な場面を須く明らかにして、その際に用いる言語材料・形式として日本語で既に持っている”meaning”に対応する英語の”form”をあてがい、与えて練習していくなかで、留意点を整理していくというようなアプローチだってあるだろうに。
Grammaringとかfocus on formとか新たな概念を取り込むのは良い。けれども、平均的な日本の学習者はuseの段階で躓いているのではない。知識を知識として「身につける」段階で既に不備があるのである。まずはその部分を改善せずして、運用面ばかりを徒に強調するのは論点のすり替えでしかない。
伝聞や意図的なリークではなく、中教審からの直接の情報が明らかになった時点でまた詳しく述べたいと思うが、その時ではおそらく、もう手遅れなのだろう。
本日のBGM: Time is tight (Booker T. and The MG’s)