「月見れば千々にものこそ悲しけれ…」

TVのチャンネルを変えていたら、時代劇チャンネルではないのに吉右衛門の本業の声が。某局で、歌舞伎(義太夫狂言)『寺子屋(の段)』をやっていたのだった。幸四郎の松王丸、吉右衛門の源蔵。兄弟が兄弟役ではないのが面白いと言えば面白い。悲しい話ではあるが、お受験シーズンだから演目としてもいい選択だったのではないか。
ということで大学入試も一般入試スタートの時期。メールで途中経緯の報告が来る。最後まで自信を持って臨むべし。高3ライティングの特別指導をしている生徒からも課題提出と自己評価のメールが集まる。ちょっと紹介。

  • 同じテーマの文章を違う語数で書くのは思ったより難しかったです。60語はすごく短くて、書こうと思ったことをほとんど削らなくちゃいけなかったけど、その限られた語数でいかに自分の考えを伝えるか、少ない語数の表現に変えるか、などとても勉強になりました。語数によって、表現や組み込む意見の足し算・引き算を調整しなくちゃいけないと思いました。
  • 私はこの課題を通して、構成の作り方をちゃんと学べた気がします。特に「確かに〜であるが、〜である。」という展開を作れるようになった…気がします。あとこの課題のおかげですごくいいことがありました!こないだ受けた英検準1級のwriting sectionで似たような問題が出されたんですよ!だから、「おぉ!」っとびっくりしながらも、すらすらと書けました!おかげで、第1次は余裕で受かりました。残るは面接のみです。頑張りたいと思います…。

私としては、むしろトピックがまったく違っていたとしても対応できるように力をつけておいたはずなのだが…。
非常勤になったこともあるが、入試に特化した授業・補習をやらなくなってしばらく経つ。このブログでは再三再四指摘しているのだが、なぜ「○○大学対策として過去問の演習に充分な時間をかけます」「出題傾向・形式の変化に対応できるように、第二志望以下の大学の過去問に関しても万全の準備をします」などという授業が高3での授業の主流となってしまうのだろう。
私の場合は、過去問演習に血道を上げたり、小テストを繰り返す、という授業にはもう耐えられないので、「見た目は入試対策とは遠いものでいて、その授業にきちんと取り組んでいれば、入試レベルで要求される英語力は既に充分養成されていて、過去問やその類題を解くよりも自分の成長に寄与する」ような授業を志向することになる。シラバスデザインから教材開発まで大変な思いをすることになる。
先日のFTCの時は思い出していなかったのだが、公立時代は、高3の必修授業で教科書の内容でグループごとにマイクロティーチングをさせ、選択授業では、素材文を与えて長文読解問題をグループで作成させ、コンペをやっていた年度がある。何が出来れば、その英文が読めたことになるのか、ということを、語義の理解から要約まで様々な形式で作問させ、当然のことながら模範解答も作成させていた。この当時の勤務校は国公立大への進学者はほとんどいない中堅の普通科高校であり、選択者の中には就職する者もいたが、授業での達成度は現任校とあまり変わらない気がする。本気になれば(させれば)、それまでの学習歴や環境などあまり気にするものではない。ある意味、「進学校」と言われていない学校の方が伸び代が大きいとも言えるのだ。格差社会にまつわるメディアの論調を鵜呑みにするのではなく、目の前の生徒の個々の現実と向き合うこと、生徒の代わりに何かをしてあげるのではなく生徒にもその現実に向き合わせることが教師に与えられた役割であろう。「英語教育にもの申す」の倫太郎さんと話をしていると、そういうことを痛感する。
高校の教員はともすると、自分の勤務校の額面・ブランドで仕事をしがちである。教科書や教材の出版など教育に関わる企業がらみの仕事を考えても、英語に関して言えば、有名校といわれる学校で専任として勤めているときにはすり寄ってくるものの、非常勤で売りになる肩書きがなくなればとたんに見向きもしないという人も多い。不徳の致すところとはいえ淋しい限りだ。もはや教育を作る一員ではなく、お受験子育て雑誌の売り上げを左右する読者と変わらないメンタリティの人たちがこの業界で働いているのである。教育もビジネスと同じで、「教育モデルを売る側」の方が優位に立つ構図が出来つつある。生徒レベルでもそれは同じである。少し大きな書店の学参売り場に行って見れば、「手帳・日記・ダイアリー」の類が雨後の竹の子のように増えたことに気が付くだろう。勉強法の本ばかり読んでも勉強が出来るようにはならないのに…。『ドラゴン桜』が流行れば、みなそれに乗っかり、ドラゴン桜「のモデル」、ドラゴン桜「を地でいく」、ドラゴン桜「が贈るスペシャル企画」、などなど…。教師の中にも、こういう流れに感化されてしまう者がいるのが困ったものだ。例えば『ドラゴン桜』に出てくる英語教師のモデルと言われる竹岡氏は洛南高の非常勤講師も勤めているわけだが、洛南って1学年500人以上いるわけですよ。非常勤の影響力が及ぶ範囲など限られていることは常識を働かせればわかろうというもの。「むしろ、他の英語科の先生が凄いんじゃないか?」というように想像力を働かせる方が健全なのではないか。私の勤務校にしたって、1学年320人以上。そのうち私が直接教えるのは1年間で約80人、クラスは全く持ち上がらないので2年間で全体の半分の160人程度にごく薄い影響を及ぼした程度に過ぎない。結局、どんな職場であれ、それぞれの先生がその持ち場で尽力するからこそ、全体として機能するのである。カリスマ、達人、名人、スーパーティーチャー、エキスパートティーチャー、などをもて囃すのではなく、教師それぞれが、その「志」を自らに問えばいいのではないか。市井の教員としての己の矜持を今一度確かめたい。
本日のBGM: スーパーマンにはなれない(大江千里)