アキレス腱とyour Achilles heel

  • 外国語の勉強が楽しいのは、言葉を覚えたあとで見えてくる新しい世界の魅力もさることながら、まず第一に、そうしてことば自体の存在に触れ、その手応えや抵抗感をじかに感じ取ることができるからである。そしてやがて見えてくる新しい世界さえ、実は他ならぬそのことば自体によって組み上げられ、形づくられたものであることが、はっきりと実感できるからである。(川本皓嗣「詩の嫌いな人に」、『現代英語教育』(研究社)1994年6月号、pp.11-13)

この号の特集は「英詩のある授業」。巻頭論文は、池上嘉彦氏の「<ことば>としての詩 (pp. 8 - 10) 」。高校英語での英詩の取り扱いについては、このブログでも再三言及しているが、ここでは、少し変わった切り口での引用を。

  • 詩が本質的に<ことば>の問題であるということは、次のように考えればよい。例えば、いま誰からもすぐれた価値のあるものとされている詩の作品があるとする。これをパラフレイズしてみる。パラフレイズは、もちろん、もとの詩の言わんとするところを忠実に再現しようという試みである。しかし、もとの詩がどれ位価値のあるものであっても、そのパラフレイズに同じ価値を与えることはとても出来ない。同じようなことを言おうとしているのに、なぜ価値がなくなるという変化が起こるのか。表現の仕方が変わってしまうからである。しかも、この場合の表現は、もちろん<ことば>によるものである。<ことば>は、詩を詩として成り立たせるのに、深く関わっているわけである。(p. 8)

今風の読解、readingの授業では、ともすれば「英文和訳からの脱却」「英語を英語のまま理解する」「自分のことばでパラフレーズできることがその英文が読めたことの証となる」というスタンスが強調されるのだが、この特集で池上氏が言うように、パラフレーズをしたらその言葉がもともと持つ価値はなくなってしまう、ということには思いが及ばないようである。その教材で学ぶ言葉そのものの価値を生かすには、「等価」にいかに近い理解の方法を持っているかが問われるはずなのだが、時代はどんどんとパラフレーズの方へと流れているようだ。言葉そのものの価値に代わって何を身につけているのか、と問えば、「スキル」という答えが返ってきそうなのだが、今風のスキルを身につけるために読んでいる文章がどのような文章なのか、ということもそろそろ問い直すべきではないのか。
現行の中学高校の教科書を眺めてみれば、「読み物」としての教材がその意味を持つのは高校レベルに入ってからであることがわかるだろう。教科書の英文は意味を理解すればよいというわけではない。その言葉そのものをどのようにして学ぶのか、ということも考えるべきではないのか。
今風の読解指導に対する私の疑問は二つ。

  • パラフレーズしてしまっては価値のなくなってしまう英文を授業で扱わなくなってしまうのではないか。
  • 個々の学習者は、教室でのパラフレーズで用いる英文そのものは、一体いつ身につけることを期待されているのか。

私の手元の教材からいくつか。

  • You can fool all the people some of the time, and some of the people all the time, but you cannot fool all the people all the time. Abraham Lincoln (藤井哲郎・マイケル・プロンコ (2003年)『一流の朗読で聴く名文 教養ある英語』マクミランランゲージサービス、より抜粋)

この英文を、この教材ではこのようにパラフレーズしている。

  • It may be possible to cheat and trick everyone for a little while, and you can cheat and trick some people anytime you want to, but you cannot cheat and trick everyone all of the time.

このようにパラフレーズしてしまっては、それはもうリンカーンの言葉とは言えないのではないか、という疑問が湧く。ここでのパラフレーズは原文の英語をより噛み締めるための足場・踏み台としての意味しかないだろう。とすれば、パラフレーズすることに意味があるのではなく、原文にいかに近づくかに意味があるわけである。また、もし教室でこのようなパラフレーズを要求する場合に、パラフレーズの英文を、教師や、ある生徒が英語で言った後で、他の生徒はその英語をどのように処理しているのかという点も疑問である。もし、パラフレーズの適否に関してのフィードバックまで英語でなされるとすると、オリジナルの英語よりも難しい英語でのinteractionになってしまい、教室という一斉学習の場には適さないのではないのか、という危惧がつきまとう。
次のような文章はパラフレーズに適する類のものと言えるだろう。

  • Use of additives is not new. When man first learned that fire would cook his meat and salt would preserve it without cooking, we began to use additives. As our knowledge of food improvement and preservation has increased, our use of additives also increased. Some additives could be eliminated if the housewife were willing to grow her own food, harvest and grind it, and spend long hours cooking and canning. Others could be eliminated if she were willing to accept bland, uncolored substances of short shelf life. (GED The reading Skills Test, Barron’s, 1980より抜粋)

では次のようなものはどうだろうか?

  • I had an amusing experience last year. After I had left a small village in the south of France, I drove on to the next town. On the way, a young man waved to me. I stopped and he asked me for a lift. As soon as he had got into the car, I said good morning to him in French and he replied in the same language. Apart from a few words, I do not know any French at all. Neither of us spoke during the journey. I had nearly reached the town, when the young man suddenly said, very slowly, ‘Do you speak English?’ As I soon learnt, he was English himself! ( L.G. Alexander, 1967, Practice and Progress より抜粋)

さらには、次のような短い文は?

  • Capablanca, the former world champion, was once asked by an admirer how many moves he typically examined in a difficult position. He replied, “One, but it is the right one.” (倉谷直臣(1981年)、『誰も教えてくれなかった英文解釈のテクニック』朝日イブニングニュース社、より抜粋)

高校レベルの教材を扱うのであれば、パラフレーズの効き目・弱り目をよく把握した上で授業に取り入れることが望まれる。
文学・哲学・思索・思想といった類の文章を授業で扱う方法論を見直すと同時に、様々なタイプ、様々なスタイルの文章に教室で接する機会を持たせたいと切実に思う。生徒も教師も逐語訳をしているつもりで、実は英文を読めていない授業が一番困るのだが、和訳や日本語の使用を排除したから問題が解決したと思ってもらっても困るのである。
もっとも、私の原稿執筆が進んでいないというのが最も困るのだろうが…。
本日のBGM: Love is love (Christopher Cross)